Metaphysical Nihilism (1):「引き算論法」の概略
いつの間にか一月以上前のものになってしまった前回の記事で関連文献をまとめたMetaphysical Nihilismについて、自分の勉強も兼ねて少しずつメモを書いていく(つもり…次がいつになるかは分からないけど)。とりあえず今回は、Metaphysical Nihilismを擁護する議論である「引き算論証 (the subtraction argument)」の概略を見てみる。
この論証は、Metaphysical Nihilismを現代形而上学のそれなりにメジャーな話題に押し上げたといってよさそうなThomas Baldwinの1996年の論文「何もなかったかもしれない (There might be nothing)」の第二節で(たぶん最初に)定式化されている。以下のまとめももっぱら同論文に依拠しているが、前提や議論の定式化に際してBaldwin [1996]の書き方にしたがっていないところもある。とはいえ、彼が示した論証のポイントは外していないはずだ。なお、以下では可能世界が実際に存在するかのように受け取ることができる言葉遣いもしているが、可能世界がこの世界と同じように存在するということを認めないと引き算論法が成り立たないわけではない。(それどころか、可能世界がこの世界と同じように存在することを認める立場、いわゆる様相実在論はそもそもMetaphysical Nihilismと両立しないかもしれない。実際のところ、様相実在論者であるルイスは、世界とは時空的に関係し合ったもののメレオロジー的和であるという理由から、まったく何も存在しない可能性を認めない。この点については今回は立ち入って考察しない。Cf. David Lewis, On the Plurality of Worlds, p. 73; also cited by Baldwin [1996, p. 231].)
さて、MNとは「何も存在しなかったかもしれない」という可能性を認める立場のことだった。つまりこの立場によれば、
- (N) 何も存在しなかったかもしれない。
はこの現実世界において真である。Baldwinの引き算論証は、(N)が現実世界において真であることを以下の三つの前提
- (A1) 有限個の具体的対象しか存在しなかったかもしれない可能性がある。
- (A2) それらの具体的対象はどれも偶然的存在であり、存在しなかったかもしれない。
- (A3) それらの具体的対象が存在しないことは、別の具体的対象が存在することを必然化するわけではない。
(および到達可能性関係の推移性)を認めることによって示そうとする。論証の概略は以下の通り。
- (A1)より、現実世界から到達可能な世界w1が存在し、w1には有限個の具体的対象しか存在しない。
- (A2)より、w1に含まれる任意の具体的対象x1は存在しなかったかもしれない。つまり、w1から到達可能であり、w1に存在するx1以外の具体的対象どれもがその中に存在するような可能世界が少なくとも一つ存在する。(実際には、おそらくこうした可能世界は無数に存在するだろう。)
- (A3)より、x1がある世界に存在しないことはそれ以外の具体的な対象がその世界に存在することを含意しない。したがって、2で存在が示された可能世界の中に次のような世界w2が存在する:w2はw1から到達可能であり、w1とw2の違いはx1がその中に存在するかどうかという点に限られる。このとき、w2に存在する具体的対象からなるドメインは、w1のそれよりも具体的対象一つ分だけ小さいことになる。
- 2および3と同様の手続きをw2に適用することで、ドメインがさらに具体的対象一つ分だけ小さい世界w3が得られる。
- w1には有限個の具体的対象しか含まれないので、上と同様の手続きを繰り返すことによって、具体的対象が一つしか存在しない世界w-minが得られる。
- (A2)および(A3)より、w-minに含まれる具体的対象は存在しないことがありえ、かつそれが存在しないことは他の具体的対象の存在を必然化しない。したがって、具体的対象を全く含まない可能世界w-nilが存在する。
- 到達可能性関係の推移性より、w-nilは現実世界から到達可能である。
- したがって、(N)は現実世界において真である。
Metaphysical Nihilism関連文献
「そもそもなぜ何かが存在するのか」という問いが前提にしているようにも見える、「何もなかったかもしれない」という可能性(この可能性を認める立場は、“Metaphysical Nihilism”と呼ばれる)をめぐる最近の議論を追っかけてみようと思い、とりあえず出版年順に関連論文を並べてみた。随時追加予定。
背景
- Lewis, D. K. 1986. On the Plurality of Worlds, Blackwell.
- Armstrong, D. M. 1989. A Combinatorial Theory of Possibility, Cambridge University Press.
- Van Inwagen, P. 1996. “Why Is There Anything at All?” Proceedings of the Aristotelian Society 70: 95-110. (翻訳「そもそもなぜ何かがあるのか」、青山・谷川・柏端編訳『現代形而上学論文集』、勁草書房、2006年。)
- Lowe, E. J. 1996. “Why is There Anything at All?”, Proceedings of the Aristotelian Society, 70: 111-120.
Baldwin 1996 (もともとはInwagenとLoweへのコメント)以降。
- Baldwin, Th. 1996. “There might be nothing.” Analysis 56: 231-38.
- Rodiguez-Pereyra, G. 1997. “There might be Nothing: the Subtraction Argument Improved.” Analysis 57: 159-166.
- Carlson, E. & Olsson, E. J. 2001. “The Presumption of Nothingness.” Ratio 14: 203-221.
- Rodiguez-Pereyra, G. 2002. “Lowe’s argument against nihilism.” Analysis 60: 335-340.
- Lowe, E. J. 2002. “Metaphysical Nihilism and the Subtraction Argument.” Analysis 62: 62-73.
- Paseau, A. “Why the Subtraction Argument Does Not Add Up.” Analysis 62: 73-75.
- Rodiguez-Pereyra, G. 2002. “Metaphysical Nihilism Defended: Reply to Lowe and Paseau.” Analysis 62: 172-180.
- Coggins, G. 2003. “World and Object: Metaphysical Nihilism and Three Accounts of Worlds.” Proceedings of the Aristotelian Society (NS) 103: 353-360.
- Cameron, R. P. 2003. “Much Ado about Nothing: A Study of Metaphysical Nihilism.” Erkenntnis 64: 193-222.
- Rodriguez-Pereyra, G. 2004. “Modal Realism and Metaphysical Nihilism.” Mind 113: 683-704.
- Roy A Sorensen 2005. “The ethics of empty worlds.” Australasian Journal of Philosophy 83: 349-356.
- Efird, D. & Stoneham, T. 2005a. “Genuine Modal Realism and Empty World.” European Journal of Analytic Philosophy 1: pp. 21-37.
- Efird, D. & Stoneham, T. 2005b. “The Subtraction Argument for Metaphysical Nihilism.” The Journal of Philosophy 102: 303-325.
- Paseau, A. 2006. “The Subtraction Argument(s).” Dialectica 60: 145–156.
- Efird, D. & Stoneham, T. 2006. “Combinatorialism and the Possibility of Nothing.” Australasian Journal of Philosophy 84: 269-280.
- Cameron, Ross P. 2007. “Subtractability and Concreteness.” The Philosophical Quarterly 57: 273-279.
- Rorensen, R. 2009. “Nothingness.” Stanford Encyclopedia of Philosophy.
- Efird, D. & Stoneham, T. 2009a. “Justifying Metaphysical Nihilism. A Response to Cameron.” The Philosophica Quarterly 59: 132-137.
- Efird, D. & Stoneham, T. 2009b. “Is Metaphysical Nihilism Interesting?” Pacific Philosophical Quarterly 90: 210-231.
- Hansen, S. B. 2010. “Metaphysical Nihilism and Cosmological Arguments: Some Tractarian Comments.” European Journal of Philosophy 18: 1-20.
- Coggins, G. 2010. Could There Have Been Nothing? Against Metaphysical Nihilism, Palgrave Macmillan. (A Review by Kelly Trogdon in NDPR, 2011)
- Hoffman, A. 2011. “It's not the End of the World: When the Subtraction Argument for Metaphysical Nihilism Fails.” Analysis 71: 44-53.
Charles Travis, "Mind Dependence" (2000)
フッサールの草稿ばかり読んでいると精神衛生によくないので何か別のものを読もうと思って選んだけど、よく考えてみればトラヴィスに挑戦する方がよほど精神衛生に悪いんだった。「心と世界が一緒になって心を世界を作り上げている」という(ある時期の)パトナムが自身の内在的実在論に与えたキャッチフレーズから出発して、世界の心への依存という現象が否定しがたく認められることと、それがある種の客観性を脅かすわけではないということを論じる論文。なんだけど、とにかく英語が分かりにくい。世界のあり方に関係した言語使用の場面に密接して議論を進めるあたりはさすがの迫力があって(個人的には説得されたくないのだけど)面白く、頑張ってついて行こうという気になるんだけど、けっきょく後半は流し読み気味で済ませることになってしまった。今度やる予定の発表の内容と無関係ではないので、この辺の話題についてはもう少し関連文献を読みたい。とりあえずこの論文へのパトナムによるリプライ(ここで読める。ちなみにトラヴィス論文はこちら)を見てみるか。
2012年大学入試センター試験「倫理」第四問問7(フッサールに関する問題)について
今年の大学入試センター試験の「倫理」で「フッサールの思想の記述として最も適当なものを、次の1から4のうちから選べ」という問題が出た(こちらで見ることができる)。選択肢は以下の通り。
- 人間は自己の在り方を自由に選択するため、実存が本質に先立つ。
- 事物は知覚とは独立に存在せず、存在するとは知覚されることである。
- 言語の限界を超える語り得ぬものについては、沈黙せねばならない。
- 自然的態度を変更し、判断中止を行うことが必要である。
フッサールの初期超越論的観念論関連草稿(3)
引き続きMs. B I 4を読んでいる。現実的経験だけでなく可能な経験もそこに位置づけられることになる純粋意識はどのようなものとして存在するのか、純粋意識と経験的な(あるいは内世界的な)意識の関係はどのようなものなのかという問題が論点の一つであることは確実なのだけど、どうにも話の焦点が定まらない。論理法則と純粋意識の関係について面白いことを書いている箇所を見つけるなど、成果はそれなりに出ているのだけど、このふらふらした感じは読んでいて非常に疲れるな。まあ草稿だから仕方ない。
フッサールの初期超越路的観念論関連草稿(2)
B I 4の続き。モナド論っぽい話題が出てきてから話がどんどん思弁的な方向に進み、最後には本人が思弁であることを認めたところで突然終わる。二次性質とかEinfühlungに関して面白そうなことを書いているだけにちょっと残念。で、突然終わった後からは、また最初からやり直しという感じで別の考察が始まる。