研究日誌

哲学と哲学史を研究している人の記録

現代哲学の研究に哲学史は必要なのか(その4):論証のかたちを可能なかぎり単純にし、反論の道を探る

そろそろ批判的なことを書きたいのだけど、反応を見ているとそもそもの話が理解されていないので補足を続ける。なるべく単純でわかりやすくすることを心がけた。また、この記事から読み始めることもできるようにしたつもりだ。短くしようとしたのだが、あるていど丁寧な説明を目指した結果、短いとはいえないであろう分量になってしまった。哲学についてあるていど専門的な訓練を受けた人にとっては、最後の「まとめと簡単なコメント」だけ読めば十分な話かもしれない。

原論文の情報はこちら。

今回の記事では、この論文の文言を直接引用せずに同論文の核心となる部分を取り出すことにした。とはいえ以下は私が理解したSauer論文の解説でしかないので、より正確なことを知りたい人は原論文にもあたってほしい(オープンアクセスなので無料で読める)。そのときには、私の他の記事も手がかりになるだろう。

  • 可能なかぎり単純にした議論のかたち
  • この論証に反対するための選択肢
    • 第一の選択肢を選ぶことはかなり難しい
    • 第二の選択肢も厳しい道だ
  • まとめと簡単なコメント
  • 文献案内
  • 関連記事
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現代哲学の研究に哲学史は必要なのか(その3):どのような研究実践が推奨されているのか

今日も続きの話を、しかし短めに。まずはおさらいから。

Sauerの言いたいことは、要するに次のように再定式化できるものだった。

  • もしあなたが特定の哲学の問題について、真だと考えることを支持する理由のある考えを手に入れたいならば、歴史上の哲学者の著作を読むことは不要である。

ここでの「特定の問題」とは、哲学の歴史のなかで一貫して問われ続けているような問題のことだ。詳しいことについては「その2」を読んでほしい。

おさらい終わり。

さて、今回の話に入るためのとっかかりとして、上の主張に対する「筋違いの賛意」をひとつとりあげよう。Sauerに同意して、「そのとおりだ。哲学に哲学史はいらない。自分の頭で考えなければ哲学じゃない」と考えることは、残念ながら要点を外している。少なくとも、「自分の頭で考えること」を「特に参考文献を使わずに、あるいは入門書のたぐいを軽く読んだうえで哲学的な問題について取り組むこと」として考えているならば。

Sauerの主張は、「歴史上の哲学者の著作を読む代わりに同時代の著者のものをもっと読め」というものだ。別の言い方をすれば「自分が扱う問題に関する科学的・経験的知見や、そうした知見を踏まえた最新の議論をしっかりと踏まえろ、そのための時間を古典的な著作の読解に浪費するな」、というのがSauerの提案だ。そのため「自分の頭で考える」のは、まともなインプットをしてからだ、ということになるだろう。

では、ここで想定されている「インプット」とはなんだろうか。この点については、専門的な哲学研究の業界の外にいる人にはあまりはっきりとしたことはわからないかもしれない。というわけで、こうした研究実践の雰囲気を知るための手がかりとなりそうなものを紹介しておこう。応用哲学会の雑誌Contemporary and Applied Philosophyに収められたサーヴェイ論文だ。以下から無料でダウンロードできる(雑誌名は英語だがサーヴェイ論文はどれも日本語で書かれている)。

勉強になる文献ばかりのはずなので*1もちろん全文読んでもらってもいいのだが、今回の目的のためには末尾の文献表を眺めるだけでもいい。ほとんどの文献が英語で、最近の雑誌論文が多く、20世紀前半以前のものはあまり掲載されていないはずだ。こうした文献を大量に読んで、その気になれば今回紹介したサーヴェイ論文を書けるようにするために時間を使うべきだ(もしあなたが特定の哲学的問題について真だと考えることを支持する理由のある考えを手に入れたいならば)というのが、Sauerの提案のもう少し具体的な内実だ*2

*1:私はこれこれを読んだことがあるが、どちらもたいへん勉強になった。ここで告白すると、こんなにサーヴェイ論文が増えていたとはしらなかったので、残りのものもなるべく読みたい。

*2:そして「しかるのちに自分自身の貢献を出版することを目指せ」という話になるだろう。ここでの「出版」がまずもって何を意味するのかといえば、それはもちろん、査読付き国際誌(のうちでも格の高いもの)に論文を出すことだ。

現代哲学の研究に哲学史は必要なのか(その2):何が誰にとって不要だとされているのか

前回の記事の続き。大雑把には「現代哲学の研究に哲学史は必要ない」という主張を擁護した論文

について、いくつかの補足をしておく。ちなみに哲学史と哲学の関係について私は自分なりの考えをもっており、Sauerの論文にも賛成できるところとできないところがある。しかし前回と同様に今回のエントリーでも、原則として私見を交えずにSauerの主張をはっきりさせることしかしていない。また、原則を破って私見を述べる際には、それとわかる書き方をしたつもりだ。

前回のエントリーと同じく、以下ではこの論文を2022年9月現在の'Latest articles'版のページ番号だけで参照する*1。これまた前回と同じく、以下に出てくる鉤括弧は、そのあとにページ番号が付されている場合には同論文からの引用である(翻訳は植村による)。それ以外の鉤括弧は読みやすさのために植村がつけたものだ。

目次

  • Sauerは何を主張しているのか
  • 何が誰にとって不要だとされているのか
  • いくつかの補足
  • 文献案内

*1:同論文がInquiry誌の正式な巻号の一部になったとき、ページ番号は変わるはずだ。そのため、この記事を少し後になって読む人は、このエントリーで参照されているページを探すのに少し手間をかけてもらう必要がある。

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現代哲学の研究に哲学史は必要なのか

大雑把に言えば、タイトルの問いに「必要ない」と答える論文が出た。

読んでみたら面白かったので、自分用のメモも兼ねて概略をまとめておいた。感想なども書きたいのだけど概要だけでだいぶ長くなったのでその辺はまたの機会にしたい。とはいえいくつかのことは注に書いておいた。

 

要注意事項

  • 以下では同論文を2022年9月現在の'Latest articles'版のページ番号だけで参照する*1
  • 以下に出てくる鉤括弧は、そのあとにページ番号が付されている場合には同論文からの引用である(翻訳は植村による)。それ以外の鉤括弧は読みやすさのために植村がつけたものだ。
  • この要約は、箇所によっては原文をかなりパラフレーズするかたちで作られている。別の言い方をすれば、この要約は原文の重要そうなところを摘んで翻訳したものではない*2
  • 後半の要約が短くなるのは、書いているうちにだんだん疲れてきたからという事情もあってのことだ。
  • 内容に関する大きな修正があった場合には、そのことを明記する予定である(字句の軽微な修正や趣旨を変えるものではない補足については、いちいち明記しない)。
  • 【2022年9月24日12時52分追記】この論文はオープンアクセスなので無料で読める。私のまとめは網羅的ではないし正確ではない部分もあるかもしれないので、興味のある人はぜし現物に当たってほしい(そしてこの記事の誤りや補足などをしてもらえると助かる)。
  • 【2022年9月25日9時29分追記】本文末尾に「関連記事」というセクションを作り、補足記事へのリンクを掲載した。補足記事のリンクを今後も追加する予定だが、煩雑さを避けるために、この箇所にはそれを明記しない。

 

目次

  • イントロダクション(pp. 2–3)
  • 第1節「反歴史主義の歴史」(pp. 3–6)
  • 第2節 哲学史の言い分(pp. 6–11)
  • 第3節 歴史上の著者たちはおそらく、ほとんどすべてのことに関して間違っていた(pp. 11–16)
  • 第4節 歴史上の著者たちはおそらく、もっと出来の悪い哲学者たちだった(pp. 16–21)
  • 第5節 私たちはどうやってここに辿り着いたのか(pp. 21–22)
  • 第6節 結論(pp. 22–24)
  • 関連する記事

*1:同論文がInquiry誌の正式な巻号の一部になったとき、ページ番号は変わるはずだ。そのため、この記事を少し後になって読む人は、このエントリーで参照されているページを探すのに少し手間をかけてもらう必要がある。

*2:パラフレーズし過ぎ、パラフレーズが間違っているなどのツッコミをお待ちしています。

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高橋里美の胆力(おまけその2)

『高橋里美全集』第7巻の末尾にまとめられた年譜によると、高橋がドイツ留学から日本に帰国したのは1928年2月のことらしい*1。ということは、ハイデガーがマールブルクからフッサールを訪ねてきた1927年10月12日前後に高橋がまだフライブルクにいたとしても、おかしくはない。つまり、高橋の帰国にあたってハイデガーが送別会を取り仕切ったという小野浩の(おそらく高橋本人から聞いたのであろう)話*2は、現時点の証拠に照らして事実だと推定できることと少なくとも矛盾しない。とはいえ、ハイデガーが幹事役をつとめたかどうかについては、たぶん慎重になったほうがいいだろう。このときハイデガーはほんの短い間しかフライブルクに滞在していないからだ。

ちなみに1927年の秋には、ローマン・インガルデンもフライブルクを訪問していた。インガルデンの回想によると、このとき「私はフッサール宅で催された哲学の集いを体験したが、その集いにはハイデッガー、ベルリーンのパウル・ホーフマン、フライブルクのカトリック哲学者ホーネッカーも参加した」らしい*3

これは単なる想像でしかないが、ひょっとしたらこの集まりが高橋の送別会を兼ねていたのかもしれない。もしそうだとしたら、高橋や務台はインガルデンとも顔を合わせていたということになる。だからどうしたという話かもしれないが、高橋とインガルデンのそれぞれについて論文を書いたことのある身としては、なんだか楽しくなる想像ではある。

*1:「高橋里美年譜」、『高橋里美全集 第7巻 小品・随想、その他』、福村出版、1973年、298ページ。

*2:小野浩「ハイデガー先生の思ひ出」、『城西人文研究』第9号、194–154頁。引用は192頁から。この随筆はこちらでダウンロードできる。

*3:インガルデン「書簡への注釈」、『フッサール書簡集1915–1938 フッサールからインガルデンへ』、桑野耕三・佐藤真理人訳、せりか書房、1982年、229–230ページ。

フッサールの「ブレンターノの思い出」はいつ書かれたのか

この話の続き。フッサールのブレンターノ追悼文には、政治的な見解に関する両者の相違に関する記述がある。それによると、ブレンターノが大ドイツ主義者であったのに対して、フッサールは小ドイツ的なドイツ統一を主導したプロイセンへの好感を持っていたのだった。

さて、この話には少し引っかかるところがある。フッサールの文章が刊行されたのは1919年だ。このときすでに、ドイツ帝国もプロイセン王国ももはや存在していなかった。つまり、プロイセンへの愛国心の表出を含むフッサールの文章は、1918年11月のドイツ革命と第一次世界大戦の終結のあとに公になったのである。この点を踏まえると、フッサールの発言は、なかなか踏み込んだ行為として受け止められそうにもみえるかもしれない。

とはいえ、ここにはまだ問題が残っている。もしブレンターノ追悼文の原稿が実際に書かれた時期が1918年11月よりも後だとしたら、フッサールは革命と終戦の後のドイツで敢えてプロイセンについて肯定的に語ったというふうに理解することができるだろう。しかし、もしこの文章の執筆時期が1918年11月よりも前だとしたら、フッサールは革命後の状況のなかでプロイセンについて肯定的に語ってそれを公表しようとしたとは(少なくとも簡単には)いえなくなる*1

現在私たちの手に入る証拠に照らして考えるかぎり、フッサールが「ブレンターノの思い出」を書いた時期は1918年11月よりも前だと考えるのが妥当だろう。この文章は、オスカー・クラウスが編纂した『フランツ・ブレンターノ その生涯と学説を心に留めるために』の一部として発表された*2。そして同書の序言(Vorwort)でクラウスは、フッサールの寄稿に言及したうえで、末尾に「プラハ、1918年夏」と記しているのである*3

というわけで、私たちは「プロイセンへの愛国心の表出を含むフッサールの文章は、1918年11月のドイツ革命と第一次世界大戦の終結のあとに公になった」と述べることはできるが、「フッサールはプロイセンへの愛国心の表出を含む文章を、1918年11月のドイツ革命と第一次世界大戦の終結のあとに公にした」と述べるべきではない。二つの語り方の違いは大きい。

*1:仮にフッサールが出版前に校正で該当箇所を修正できたということがはっきりしていたのだとしたら、話は少しややこしくなるだろう。しかしいまはこの点には立ち入らない。

*2:Oskar Kraus (ed.), Franz Brentano. Zur Kenntnis seines Lebens und seiner Lehre, München: Beck, 1919.

*3:Cf. Kraus, Franz Brentano, pp. V, VII.

愛国者としてのフッサール

フッサールは公刊著作では自分の政治的なスタンスをはっきりと明かすようなことをほとんどしないのだけど、数少ない(ひょっとしたら唯一のといっていいかもしれない)例外として、ブレンターノの追悼文(1919年刊行)での以下の箇所が挙げられる。

信頼できる友と見た者には自分の政治的信念や宗教的信念また自分の個人的運命についても胸中を吐露した。政治の時事問題からは遠ざかっていたが、心情に関る問題はブレンターノにとって古い南ドイツの見方でいう大ドイツ主義の理念であり、この見方のなかでブレンターノは育ち、この見方にいつまでも、プロイセンへの反感と同じ程度に固執していた。この点で私はどうしても一緒になれなかった。ブレンターノにとって明かにプロイセンの流儀は重要な個人的印象としても有益な社会的印象としても決して解り易いものにならなかったが、幸いにも私自身はこうしたこうした印象を高く評価できる習わしで育っていたのである。それゆえブレンターノにはプロイセンの歴史に独特の偉大さを感受する力もことごとく欠けていた*1

フッサールは1859年に、当時オーストリア帝国領でいまはチェコ領のプロスチェヨフ(プロスニッツ)に生まれた。そのためフッサールはオーストリアの哲学者と紹介されることもある*2。こうした捉え方は間違っているというわけではないだろう。しかし、プロイセンへの好感を(第一次世界大戦の終結直後にも)隠そうとしないフッサールは、小ドイツ的に(オーストリア抜きで)統一されたドイツへの帰属意識をおそらくもっていた。

こうした事情を踏まえると、フッサールのテクストにはプロイセンあるいは(プロイセンの主導により成立した)ドイツ帝国に対する愛国心をさりげなく表明していると思わせられる箇所がほかにもあることもわかる。たとえば『論理学研究』(初版1900/01年)の第五研究第3節では、通俗的な体験(Erlebnis)概念を説明する際の例文として「私は1866年と1870年の戦争を体験した」というものが挙げられている*3。フッサールがここでわざわざ普墺戦争と普仏戦争を例として挙げているのも、きっと、「プロイセンの歴史に独特の偉大さを感受」してのことなのだろう。

私が知るかぎり、フッサールが挙げる例のなかで彼のドイツ帝国への思いが一番はっきりと読み取れるのは、次のものだ。

ドイツ民族が皇帝ヴィルヘルムのうちにかくも偉大で高貴な人格に恵まれたことは、喜ばしいことである*4

この箇所を含む草稿はおそらく1896/97年に書かれたものと推定されている。その頃の時期のドイツ帝国はすでにヴィルヘルム2世の治世だ。しかし、「恵まれた(beschieden wurde)」と過去形が使われていることからして、フッサールが「皇帝ヴィルヘルム」と名指していたのはヴィルヘルム1世ではないかという気もする。

 

私の印象では、1920年代以降のフッサールは、自分のナショナル・アイデンティティをもちろんドイツに求め続けるものの、草稿のなかでもそれ以前ほどはっきりとしたかたちでは愛国心を表出しなくなる*5。興味深いのは、フッサールが共同体論に本格的に取り組み始めるのもちょうど1920年代くらいからであり、またフッサールの共同体論は、カール・シューマンの解釈によれば、究極的には国家を不要とするという点だ(この記事の「社会倫理学」という節を参照)。このあたりについては背景的なことも含めてもっとしっかり調べたうえで考えて、可能ならばそのうち論文あるいはそれに準ずるものにできればいいと思っている。

*1:細井雄介「フッセル筆「フランツ・ブレンターノの想出」、『聖心女子大学論叢』、第133号、2019年、5–26ページ(引用は16ページから)。ここから無料で入手可能。

*2:たとえば、日本語版ウィキペディアのフッサールについての項目の記述はそのようになっている。

*3:エドムンド・フッサール『論理学研究3』、 立松弘孝・松井良和訳、みすず書房、1974年、148ページ。

*4:Edmund Husserl, Studien zur Struktur des Bewusstseins. Teilband II. Gefühl und Wert. Texte aus dem Nachlass (1896–1925), Ullrich Melle & Thomas Vongehr (eds.), Husserliana vol. XLIII/2, p. 261.

*5:書簡についてはちょっと意見を保留したい。