研究日誌

哲学と哲学史を研究している人の記録

2012年大学入試センター試験「倫理」第四問問7(フッサールに関する問題)について

今年の大学入試センター試験の「倫理」で「フッサールの思想の記述として最も適当なものを、次の1から4のうちから選べ」という問題が出た(こちらで見ることができる)。選択肢は以下の通り。

  1. 人間は自己の在り方を自由に選択するため、実存が本質に先立つ。
  2. 事物は知覚とは独立に存在せず、存在するとは知覚されることである。
  3. 言語の限界を超える語り得ぬものについては、沈黙せねばならない。
  4. 自然的態度を変更し、判断中止を行うことが必要である。
正解とされているのは4なのだけど、そこに書かれていることはフッサールの思想の記述としてはちょっと(あるいは、場合によってはかなり)まずいように思われる。というわけで、フッサール研究者の端くれとして、私がなぜこの問題に難があると思ったのかについて簡単に書いておく。
 
 
I. 「判断中止」という言葉について
まず指摘しなければいけないのは、「判断中止」という言葉はフッサールの著作の翻訳でいつでも同じ原語に割り当てられているわけではないということだ。『デカルト的省察』(岩波文庫)や『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(中公文庫)では「Epoché」を訳すのにこの語が使われるが、『イデーンI』の翻訳(みすず書房版、岩波文庫版はいま手元にないので確認できない)だと「判断中止」は「Urteilsenthaltung」の訳語で、「Epoché (ἐποχή)」は「エポケー」とそのまま音訳されている。
 
専門用語の訳語の不統一はいつでも有害なわけではないけど、少なくとも今回に関してはちょっと困ったことになる。なぜなら、『イデーンI』でフッサールはエポケー(ἐποχή)を「一種の判断中止 (Urteilsenthaltung)」(翻訳第一分冊138頁、Niemeyer版だとS. 55。)として特徴づけ、エポケーではない判断中止があることに余地を認めているから。あとで見るように、フッサールにとって重要なのはある種の判断中止としてのエポケーである。別の言い方をすれば、エポケーとは別のものも含めた判断中止全般が必要だとフッサールは述べているわけではない。したがって、もし出題者が『イデーンI』とその翻訳を念頭に置いて4を書いたならば、4はフッサールの思想の記述として正確だとは言いにくくなる。しかしここでは出題者に好意的になって、「判断中止」は「エポケー」と同じ意味で使われているということにしよう。というわけで、以下では私も「判断中止」と「エポケー」を同じ意味で使う。
 
 
II. 選択肢4の曖昧さについて
もう一つ指摘しておきたい点がある。選択肢4(「自然的態度を変更し、判断中止を行うことが必要である」)は、自然的態度の変更と判断中止の実施という二つのことが必要であると述べている。このことは明らかだ。しかし一般的に言って、「Aをし、Bすることが必要である」という形の文は、AとBがどのような関係にあるのかをあまりはっきりさせてくれるものではない。4は、「自然的態度の変更をすることによって判断中止を行うことが必要である(つまり、前者ができないと後者に支障が出る)」という意味にも、「自然的態度の変更と判断中止の両方が必要だ(しかし、たとえ前者ができなかったとしても後者をすることに支障が出るわけでない)」というような意味にもとれる。最初の読み方の場合をすべき文としては「お湯を沸かし、コーヒーをいれる必要がある」を、二番目の読み方をすべきものとしては「論文を一本読み、買い物に出かける必要がある」をそれぞれ例としてあげることができる。
 
これは私の印象でしかないかもしれないのだけど、目下の文脈で4のような文章が出てきたときに二番目の読み方をするのはあまり自然ではないような気がする。というわけで、出題者が選択肢4に関して最初の読み方を意図していたのではないかと推察するのだけど、これをきちんと確定するのは難しいだろう。というわけで、今回は、二つの読み方の両方を取り上げることにする。結論から言えば、最初の読み方だと4はフッサールの思想の記述しては(かなり)怪しく、二番目は一応許容可能だろうけど、微妙かつ誤解を招くものだ。
 
 
III. 自然的態度の変更と判断中止(エポケー)に関する『イデーンI』でのフッサールの主張
では、フッサールは選択肢4で言及されている話題について実際にどのようなことを言っているのだろうか。ここでは1913年の著作『イデーンI』を見てみよう。(その前に一つだけ断っておくと、「自然的態度」と「判断中止・エポケー」ということでフッサールがそれぞれ何を言わんとしていたのかについては、今回は特に解説しないことにする。それを始めると話が長くなるし、選択肢4がちょっとまずいということを理解するためにはそうした長々とした解説は特に必要ないように思われるから。この辺の話も含め、フッサールについてもっと知りたいという人には、ダン・ザハヴィの『フッサールの現象学』をお薦めしておく。装丁の地味さというかダサさからは想像もできないくらい良い本で、フッサールに関連する話題で卒論を書く人は必読。原著はこちら。)
 
選択肢4の内容と特に関連があるのは、同書の第二篇第一章(「自然的態度のなす定立と、その定立の遮断」)、その中でも第31節と第32節だ。この箇所でのフッサールの目的は第31節の冒頭ではっきりと述べられている。引用しよう。
 
さてこの自然的態度のうちにとどまる代わりに、われわれはこの自然的態度を徹底的に変更してみよう。こうした変更が原理的に可能であることを確かめることが、今や肝要なのである。(翻訳第一分冊134頁、Niemeyer版S. 53。原文の強調は省略して引用する。以下も同様。)
 
ここを見るだけでも、フッサールが「自然的態度の変更」を重視していたことは明らかだろう。(もちろん何かが可能なことはそれをする必要があることとは別なのだけど、自然的態度の変更の必要性をフッサールが説いたという見解に反対する人は誰もいないので、今回はここにあるギャップを埋める作業は割愛。)問題は、自然的態度の変更と判断中止の関係をフッサールがどのように考えていたのかということだ。
 
フッサールは第31節の残りの箇所で、デカルトによる懐疑の試みを手がかりにしつつ、自然的態度を全体として変更するための手段を明らかにしようとしている。その結果、フッサールは「真理についての揺るぎない確信」と両立するような一種の判断中止として、エポケーという独自の操作があると主張するに至る(翻訳第一分冊138頁、Niemeyer版S. 55を参照)。デカルトの懐疑とは区別されるこの操作は、「括弧の中に入れること」とも呼ばれる。(繰り返し断っておくけど、「エポケー」とか「括弧入れ」が何を意味するかについては今は踏み込まない。)
 
続く第32節の冒頭で、フッサールはこう述べている。
 
デカルトの行ったような全般的な懐疑の試みの代わりに、われわれは今や、われわれの厳格に規定された新しい意味における全般的エポケーを、登場させることができるだろう。しかし十分な根拠からして、われわれは、このエポケーの全般性を制限する。(翻訳第一分冊139頁、Niemeyer版S. 56、)
 
エポケーは制限されなければならない。フッサールによると、この制限を一言でいうとこうなる。
 
自然的態度の本質に属する一般定立を、われわれは、作用の外に置くのである。つまり、存在的観点からみてこの一般定立によって包摂されるようなありとあらゆるものを、われわれは、一挙に、括弧の中に置き入れるのである。(翻訳第一分冊140頁、Niemeyer版S. 56)
 
今回は「一般定立」とか「存在的」の意味を気にする必要はない。肝心なのは次の点だ。括弧入れつまり判断停止は、自然的態度に属するものに対してなされる操作として考えられている。ここから分かるのは、『イデーンI』のフッサールにとって、判断停止は自然的態度を変更するための手段であるということだ。
 
 
IV. 選択肢4のまずさについて
ここまで来れば、「自然的態度を変更し、判断中止を行うことが必要である」という選択肢4の書き方が微妙なことはだいぶ分かってきたのじゃないかと思う。
 
少なくとも、IIで取り上げたうちの最初の読み方をすると、4は『イデーンI』のフッサールのまとめとしてはかなり怪しげなものになる。この場合、フッサールは「自然的態度の変更をすることで判断中止を行う必要がある」と述べていることになるが、上で見たように、実際に彼が言っているのはその逆、「判断中止を行うことで自然的態度の変更をする必要がある」だ。大学のレポートやテストでこうした書き方をしてしまったら、減点の対象にされても文句は言えないだろう(私なら躊躇せずに減点する)。
 
では二番目の読み方(「自然的態度の変更と判断中止の両方が必要だ(しかし、たとえ前者ができなかったとしても後者をすることに支障が出るわけでない)」)はどうか。フッサールは、判断中止を自然的態度の変更のための手段と見なしているのだから、「自然的態度の変更をしなかったとしても判断中止を行うことに支障がない」ということを彼は認めるだろう。そこで支障が出てしまったならば、自然的態度の変更はそもそもできないことになってしまう。というわけで、この読み方をした場合、4はフッサールの思想のまとめとして一応許容可能だろう。しかし、それでもやはり4は微妙だし誤解を招くように思われる。二番目の読み方をした場合、4はフッサールがいろいろ述べている自然的態度の変更と判断中止の関係について何も言っていないという点で微妙だし、それどころか、両者は無関係であるような含みを持つから誤解を招くのではないだろうか。
 
 
V. まとめ
というわけで、2012年大学入試センター試験「倫理」第四問問7はまずいんじゃないかと私が思った理由はおよそこんな感じだ。まあ、4は微妙で誤解を招くとは言え一応(ギリギリ)許容可能だし、1から3の選択肢が他の哲学者のまとめ(順番に、サルトル、バークリ、ウィトゲンシュタインだろう)だということが分かれば消去法で4が残るので、この問題は出題ミスだとまで言うつもりはない。センター倫理の勉強をある程度し、いわゆる受験テクニックを身につけていればこの問題を解くことはできるだろう。でも、これが良問からはほど遠いということは確かだ。「自然的態度を変更し、判断中止を行うことが必要である」ではなくて「判断中止を行い、自然的態度を変更することが必要である」と書いておけばまだだいぶマシだったのに。