研究日誌

哲学と哲学史を研究している人の記録

現象学を学ぶ人のための現代形而上学・現代形而上学を学ぶ人のための現象学(1)

ワードマップ現代形而上学 』を一通り読了した。

仕事の合間に開いているだけでいつの間にか読み終わってしまう読みやすさは素晴らしい。はやくも重版されたという同書の人気にあやかって、現象学について関心のある人がこの本から先に進むとしたらどんな道があるのかについて、文献情報を少しまとめておこうと思う。

 

『WM現代形而上学』の著者のうち二人は、『現象学年報』にも論文を掲載しているので、(兼業ないし休業中の)現象学研究者だといっていいだろう。実際、その二人のうちの一人は先日「フッサールと現代形而上学」というシンポジウムに登壇した。そのおかげもあってか、同書には現象学の伝統に由来する話題がいくつか登場する。その最たるものは倉田さんが執筆した「存在依存」と「人工物の存在論」の二章だろう。これぞれの章に付せられたコラムでもきちんとフォローされているように、ここではフッサールとインガルデンという現象学者の議論が歴史的な背景として存在する。そして、秋葉さん執筆による二つの章でのトピックにも、フッサールや現象学の伝統からの影響を指摘することができる。「普遍」の章で導入される「トロープ」は、ボルツァーノやブレンターノといった19世紀から20世紀はじめにかけてのオーストリア哲学(追記:ここにあったとんでもないミスを見て卒倒しかけました。なぜ私はカンガルーがいる方を…)(少なくとも初期のフッサールはこの伝統に連なる)で盛んに扱われた存在者のカテゴリーだ。また、「個物」の章で取り上げられるトロープの束説のうち、トロープ束を中心部と周辺に分けるというサイモンズの戦略は、フッサールの『論理学研究』第三研究に着想を得たものだ。このことは、トロープに関する議論がフッサール周辺で盛んになされていたという点も含め、サイモンズ自身の論文(『現代形而上学論文集 』所収)でははっきりと述べられている。(「註という便利で楽しいもの」(アームストロング『現代普遍論争入門 』、秋葉剛史訳、春秋社、2012年、「訳者あとがき」より)の愛好者が書いた章にこれらの指摘が抜け落ちているというのは、『WM現代形而上学』が全体の有機的なつながりをあきらかに強く意識して書かれているという事実を踏まえると少し不思議な話だ。)

 

この辺を踏まえつつ、まずは、倉田さんが「フッサールと存在依存」(p. 207)で言及するB・スミスの編著『部分とモメント(Parts and Moments )』とその周辺について(ちなみに「モメント」はフッサールによる個別的な性質つまりトロープの呼び名で、「契機」と訳されることもある)。マーケットプレイスでは恐ろしい値段がついているが、太っ腹なことに全文のPDFが無料で公開されている。もう20年以上も前の古い本だとはいえ、マリガンとスミスによる長大なイントロダクションや巻末に付せられた詳細なコメント付き文献表の情報量は、トロープや存在依存についての議論の歴史を追いたい人には今でも有益だ。というか、情報量に関してはこれを超えるものは今後も滅多なことでは出てこない気がする。日本語で読める関連文献としては、どれも雑誌論文になってしまうのだが、ネットで無料で読めるものとしては

がある。その他の雑誌論文を挙げておくと、

  • 倉田剛「非独立性あるいは依存という概念について--『論理学研究』第三研究の意義と射程」
  • 倉田剛「フッサールの全体-部分理論について」
  • 齋藤暢人「全体と部分の現象学--メレオロジーとフッサール」

など(検索すれば詳しいことは分かるはずなので書誌情報は省略)。あと、(ようやく電子化されるらしい) 『現象学年報』が2007年に「現代のオントロジーと現象学」という特集を組んでいて、倉田・齋藤両氏はそこにも寄稿している。 存在依存についてもう少し。インガルデンの大著『世界の存在をめぐる論争』(倉田さんの訳だと『世界の存在をめぐる争い(Der Streit um die Existenz der Welt)』)は、全部で1000頁を超えるうえにドイツ語(もしくはポーランド語)で書かれているため、なかなかアクセスしにくい。しかし、存在依存を扱った第一巻については、だいぶ前から英訳があり、しかも最近になって(ポーランド語版からの)新訳まで出てている。英語が苦手ではない人は、淡々と細かい区別を導入する同書に挑戦してみてもいいと思う。手引きとしては、次の本に入っているサイモンズの論文がとても役立つだろう。

ちなみに次の論文の巻末には、インガルデンが四種類の存在依存の組み合わせでカテゴリーをどう分けたのかを図解した、サイモンズのイラストが載っている。

インガルデン自身の著作といえば、倉田さんは『音楽作品とその同一性の問題』をお薦めしている(残念なことに品切れのようだ)。分量や内容を考えても、インガルデンに興味があるならこの本から始めるのがいいというのはもっともな話だ。しかし、その際に一緒に言及される『文学的芸術作品 』にも翻訳があることには触れて欲しかった。この本はかなりハード(翻訳の文体もちょっと硬い)で読みこなすのはなかなか大変だけど、『音楽作品』でも登場する基本的な概念がより詳しく扱われている。個人的には、学部から修士課程のころに『文学的芸術作品』の翻訳に出会っていたというのは大きく、あれがなかったら今やっている研究の内容は少し違うかものになっていたかもしれないので、こちらに挑戦する人がもっと増えるととても嬉しい。

 

とはいえ、私は自分を数少ない(はずの)日本のインガルデン研究者の一人だと思っているけど、今のところインガルデンの芸術作品論についてきちんとした研究をしているわけではない(そのうちやりたいと思っているし、そういうお誘いがあれば乗っかりたいとも思っている)。そんなお前にとってなぜ『文学的芸術作品』との出会いが大きかったのかと訝しがる人もいるかもしれない。インガルデンのこの本は、文学作品を扱う際に、われわれの経験の志向性やその対象(志向的対象)についての詳細な議論を行っていて、私はどちらかというとそちらに感銘を受けたのだった。志向的対象については、拙論のほか、倉田さんによる「志向的対象を再考する」論文が『志向性と因果 (哲学雑誌 第 126巻第798号) 』に載っている。

 

個人的な話を続けると、インガルデンへの関心を持つきっかけとして、フルヅィムスキの論文「現象学的な意味の理論:ブレンターノからインガルデンまで」をそれが出た直後に読んでいろいろ目から鱗が落ちたという出来事も大きかった。この論文は、志向性の形而上学とでも言うべき観点から(初期・中期)ブレンターノ、トヴァルドフスキ、マイノング、(初期・中期・後期)フッサール、インガルデンの志向性理論をコンパクトに整理しつつ「言語とその意味」という問題に即してそれらを考察したもので、『現代思想2009年12月臨時増刊号 総特集=フッサール 現象学の深化と拡張』で翻訳もされている(というか自分で翻訳した)。ちなみに齋藤さんの上で言及した論文も、この号に入っているものだ。フルヅィムスキはこれまでに五冊の著作(うち一つ)を出していて、どれも高額なうえにドイツ語なのでなかなかアクセスしにくいけれども、存在論的・形而上学的な観点からの現象学研究に関心のある人はどれも読んで損がないはずだ。というわけで以下に並べておこう。

とりあえず第一回はこの辺で終わり。次は、第八章で倉田さんが依拠しているトマソンあたりからはじめて、形而上学に対する現象学的なアプローチについて書こうと思う。