研究日誌

哲学と哲学史を研究している人の記録

ウィリアム・フィッシュ『知覚の哲学入門』(勁草書房、2014年)

訳のチェックに関してほんのちょっとだけ協力させてもらったウィリアム・フィッシュ『知覚の哲学入門』(勁草書房、2014年)を、(だいぶ前に)訳者のみなさんからいただいた。ありがとうございます。

 

私は『知覚の哲学入門』を二年くらい前に原著で読んだのだけど、この本にはずいぶんと助けられた。フィッシュの見事かつフェアな解説によって、当時の私がきわめてぼんやりとしか理解していなかった知覚の哲学の論争状況がかなりはっきりと掴めるようになったからだ。実際、フィッシュ本を読む前と読む後では、知覚の哲学の専門的な論文を読むスピードも理解の度合いが上がった気がする(専門的な論文をそれなりに読めるところまで連れて行ってくれる入門書というのは、そんなに数多くあるわけではない)。

論争状況の見事な整理を可能にしているのは、フィッシュが同書の第一章で導入する、二つの帽子という考えだろう。知覚に関する哲学的な理論は知覚経験が持つ現象的特徴と認識論的な地位をきちんと説明しなければならないということを、フィッシュは現象学の帽子と認識論の帽子をうまくかぶることになぞらえ、さまざまな理論をこれら二つの基準を軸にして吟味していく*1。なお、このたとえを使ってフィッシュが現在の論争状況に対して下す全般的な診断は、「少しばかり単純化して述べると、現象学の帽子が似合えば似合うほど認識論の帽子は似合わなくなり、その逆もまた同様である」(p. 3)というものだ。

 

ちなみに、同書に出てくる「現象学(phenomenology)」についてはちょっと注意が必要になる。ここでの現象学とは、フッサールに始まる哲学の伝統のことではなく、経験が備えている現象的性格のことだ*2。たとえば、ピンク色の象を見ることと灰色の象を見ることには、意識的な経験として重要な違いがある。トーマス・ネーゲルが『コウモリであるとはどのようなことか』所収の同タイトルの論文で使った有名なフレーズを使えば、それら二つの経験は、それぞれが「どのようなことであるのか(what it is like)」に関して異なっている。知覚経験の現象的性格や(この本に出てくる)知覚の現象学とは、この違いに対応するもののことだ。この「現象学」がフッサールの現象学と同じものではないことは明らかだろう*3

 

さて、今回この記事を書くために『知覚の哲学入門』をパラパラと読み直してあらためて感銘をうけたのは、フィッシュの手際の見事さだ。二つの帽子を駆使したそれぞれの立場の整理はもちろん、個別の議論の再構成の仕方も総じて分かりやすく、面白い。この本を丁寧に読めば、哲学の議論というのはどのようになされているのかについても、知覚の哲学と言う実例に則した理解が得られるのではないかと思う。 とはいえ、知覚の哲学についてある程度の知識を身につけ、そこで論じられている問題に自分なりの見解を持つようになった今となると、フィッシュの整理の仕方に少し疑問が出てきてもいる。『知覚の哲学入門』のハイライトの一つは、現代の知覚の哲学の主要な対立である志向説(intentionalism)と選言説(disjunctivism)を扱う第5章と第6章なのだけど、同書での選言説の扱い方には、もう少し工夫ができたのではないかと思う。

フィッシュは選言説を一般的な仕方で導入してから、それが素朴実在論(naive realism)や関係説(relationalism)という立場の擁護に使えるという話の進め方をしている。こうした解説の仕方はもちろん間違ってはいない。フィッシュが述べるように、選言説は素朴実在論や関係説と結びつくとは限らないからだ(6.4の内容選言説を参照)。しかし、選言説を選択肢として魅力的なものになるのは、やはり、(真正の)知覚の場合には、知覚される世界内の対象そのものが当該の経験の現象的性格を構成しているという素朴実在論的な考えと結びついたときなのではないだろうか。言い方を変えれば、フィッシュのように選言説をまずは素朴実在論とは独立的に導入することは、この立場の提示の仕方として、ちょっと損なのではないだろうか*4

 

というわけで、『知覚の哲学入門』の選言説の章、特に、直観的に分かりにくい感じのする最初の方の話は、人によってはちょっと我慢して読まなければならないかもしれない(少なくとも私の場合はそうだった)。しかしこの章も内容的には信頼できるし、上で書いた難点を補ってあまりある美徳を備えた本なので、広く読まれて欲しいと思っている。

*1:ただし、この二つが基準のすべてであるわけではない。フィッシュが第一章で断っているように、知覚の哲学的理論の評価には、知覚に関する経験科学的知見と両立するかといったその他の基準も関わる(p. 3)

*2:英語の”-logy"というかたちの語は、これこれについての研究・学問という意味だけでなく、そうした研究が扱っているもののことを意味することがある。”-logy”と同じ語源の”logic”にも、論理学という特定の学問分野ではなく、特定の推論に働いている規則や規範(つまり、日本語で言うなら「論理」)として理解しないといけない用法がある

*3:しかしその一方で、フッサールに始まる現象学がフィッシュ本の意味での現象学を扱っていることは明らかだ(それだけを扱っているのではないにしても)。実際フィッシュ本は現象学を学んでいる人にこそ読んで欲しいと思っているのだけど、その話は別の機会(もしあれば)に譲りたい。

*4:フィッシュ自身が素朴実在論者で選言説の擁護者であることを考えると、これはちょっと妙な気もする(彼自身の立場はPerception, Hallucination, and Illusion で詳しく論じられている)。でもこれは見方を変えれば、フィッシュがい『知覚の哲学入門』をどれだけフェアに書こうとしているかの証拠だ、と言えるのかもしれない。実際のところ、