先日発売され、前回のエントリ(目次はそちらで見ることができます)でも紹介したトゥオマス・タフコ(編)『アリストテレス的現代形而上学』について、訳者の一人である鈴木さんが担当した章(第4章と第12章)の簡単な紹介をしている
というわけで、私も自分が担当した章に関する簡単な紹介をしたい。
トゥオマス・タフコ 「序論」
この序論では、アリストテレス的な形而上学とは何かについてのごく簡単な説明の後に、本書に収められた14篇の論文の内容が順番に紹介されている。『アリストテレス的現代形而上学』は、基本的にどこから読みはじめてもいいような構成になっているので、この序論と「訳者解説」をまずはチェックして、興味深いと思った章に進むといいと思う。
第3章 ティム・クレイン 「存在と量化について考え直す」
鈴木さんが翻訳を担当したエリック・オルソン「同一性・量化・数」と対をなすこの論文は、オルソン論文と同じく、アリストテレス的な雰囲気がやや希薄だ。ここでのクレインの目的は、クワインが「なにがあるのかについて」(『論理的観点から』所収)で表明した、量化と存在に関する考えに反対することにある。これはアリストテレス的形而上学に固有の話題というわけではない とはいえ、クワイン的な形而上学はアリストテレス的形而上学の最大の論敵の一つなのだから、クレイン論文は、アリストテレス的現代形而上学への援護射撃の試みとみなすこともできるだろう*1。また、量化と存在に関するクワインの考えが、現代形而上学におけるきわめて有力な標準的見解であり続けているという事実を考慮するならば、それに反対するクレインの試みは、アリストテレス的形而上学に関心のある人にとってはもちろん、より多くの人にとって興味深いものではないかと思う。たしかにクレインの議論は英語という言語に密着しているうえに*2、論理学についてのちょっとした知識が必要なので、若干とっつきにくいところがある。けれども、とても丁寧かつ明晰に話が進められるので、じっくり読めば主要な論点を抑えることはできるはずだ。
さて、量化と存在に関するクワイン的な考えによれば、存在は、量化表現(たとえば英語の「some」)と結びつけられる。こうした見解に反対する際にクレインが論拠とするのは、英語の文には、(1)存在しないものに量化し、かつ(2)真であるような文(例「聖書の登場人物の何人かは存在したが、何人かは存在しなかった」 )がたくさんあるという事実だ。この事実を手掛かりにして、クレインは、自然言語やわれわれの心の志向性についてより良い理解をしたいならば*3 、存在と量化を結びつけるクワイン的な見解は維持できないということを、そもそもここで何が問題になっているのかを明らかにしたうえでじっくりと論じていく。
クレイン論文に関して個人的に興味深いのは、存在と量化に密接な関係を断ち切ることで、クレインがここでマイノング主義に接近していることだ。少なくとも、マイノング主義の最小限の特徴を量化のドメインに入っていることを存在していることと区別する点に求めるならば*4、ここでクレインが擁護しているのは、紛れもなく(最小限の)マイノング主義だと言える。とはいえクレインは、マイノングや、新マイノング主義の代表格であるプリースト(『存在しないものに向かって: 志向性の論理と形而上学』)からは一定の距離をとっているように見える(少なくともこの論文では、クレインは自分 をマイノング主義者とは見なさない)。では、クレインとマイノングやプリーストのあいだには違いがあるのか、違いがあるとしたらそれは何なのか。この辺については、機会があったらぜひ考えてみたい。
第5章 ゲイリー・ローゼンクランツ 「存在論的カテゴリー」
クレイン論文とは対照的に、ローゼンクランツは、アリストテレス的な形而上学どまんなかという主題を論じている。ローゼンクランツ論文は、アリストテレス的な意味での存在論的カテゴリーとは何かの解明を、ある述語が存在論的カテゴリーを正しく表現するために満たさなければならない十分条件を10個あげることで行おうとする*5。 この論文が採用している手法は、(ある時期までの)分析哲学を彩っていた、もはや古典的とさえいうことができるものだ。10個の十分条件を一つずつ導入する際に、ローゼンクランツは、存在論的カテゴリーとは何かに関するわれわれの直観を(ときに暗黙のうちに)引き合いに出し、自分の十分条件が反直観的な帰結を封じ込めることを論じている。また、この論文の中ではきちんと議論されているわけではないのだけれども、ローゼンクランツは、それらの十分条件が、ある述語が存在論的カテゴリーを正しく表現するための必要条件でもあると考えているようだ(論文末尾を参照)。つまり、ローゼンクランツがこの論文でやろうとしているのは、いわゆる「概念分析」というものだといっていいだろう*6。ローゼンクランツ論文を読めば、形而上学の分野ではチザムが駆使していたことで知られる手法について、実地に即した理解が得られるだろう。
*1:この辺りについては『アリストテレス的現代形而上学』の訳者解説6-7頁も参照。
*2:とはいえ、クレインの議論の大半は、適宜変更を加えれば日本語を題材としても成り立つはずだ。クレインが英語に関して述べているけど日本語には成り立たないことが何か、逆に、日本語を例としたときにクレインには思いもつかなかった問題が出てくるのではないか、といったことを考えながら読むというのは、この論文の楽しみ方の一つだと思う。
*3:クレインも承知しているように、クレインが「記述的アプローチ」と呼ぶこうした方針そのものににクワイン自身は否定的だ(『アリストテレス的現代形而上学』94-95頁参照)。したがって標準見解に対するクレインの批判は、クワイン的な形而上学を正面から批判しているわけではない。
*4:この点については、拙論「『存在しない対象が存在する』というマイノングの主張について:明確化の試み」を参照してほしい。
*5:『アリストテレス的現代形而上学』には、存在論的カテゴリーとは何かという基礎的な問題への取り組みを含む論文がもうひとつ所収されており、それは第8章のサイモンズ論文だ。
*6:ただしローゼンクランツ自身は、「哲学的分析」という言葉しか使っていない。