研究日誌

哲学と哲学史を研究している人の記録

フッサールの社会哲学

Encyclopedia of the Philosophy of Law and Social Philosophy(『法哲学・社会哲学百科事典』)という事典

link.springer.com

にフッサールについての項目

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を書きました。いまのところオンラインでしか読めないのですが、どうやら来年には印刷版が出るようです(高額なので項目執筆者には貰えないやつでしょう)。また、今後もこの項目を改訂できる(改訂することが求められている)という話も聞いています。それはともかく、フッサールの社会哲学について日本語で読める文献はあまりないので、この項目について、裏話めいた解説も交えながら簡単に紹介することにしました。

執筆をした経緯

編者(より正確には、辞典全体の代表編者ではなく哲学史的なセクションを担当する編者)のうちの一人(面識なし)からいきなり依頼メールが来ました。私に依頼する前に声をかけた人(私の友人)に断られて、その人が私を候補者として推薦してくれたようです。というわけでこの仕事はコネでもらったものだといえなくもないでしょう。ともあれ、「アカデミックな仕事の依頼は二つ返事で引き受ける」という原則が私には深く染みついてしまっているので、あまり迷うことなく依頼を引き受けることにしました。

執筆にあたって考えたこと

今回執筆するのは辞典項目です。辞典項目というものは、そこで取り上げられるトピックについて、「現時点ではこれぐらいのことがわかっていて、専門家の意見もここまでならだいたい一致するはずです」というような見解を、なるべく多くの人に伝わるように概説するものだと理解しています。そのため、執筆の基本方針は以下のようなものにすべきだということになります。

  • 専門家のあいだで意見が大きく割れるような話はなるべく織り込まない
  • 専門家のあいだで意見が大きく割れるような話を織り込む場合には、それが定見であるわけではないということをはっきりさせる

要するに、オリジナリティはなるべく出さずに書くということです。

もうひとつ考慮しなければならないのは、今回の項目は法哲学と社会哲学に関する事典の一部だということです。そして、本文は1500語以内というかなり厳しい制約があることも忘れてはいけません。そのため、フッサールについての概説を書くといっても、法や社会、あるいは法学や社会科学に関係するトピックを中心に話を組み立てる必要があります。こうして、第三の基本方針が定まります。

  • フッサール現象学にとってどれほど重要な概念や議論であっても、この項目の中心トピックを論じるにあたって言及する必要のない話には触れない

この方針にしたがった結果、この辞典項目には「志向性」も「現象学的還元」も出てこないという結果になりました。

次に決めなければならないのは、項目の構成(そこで触れるべきトピックと、それを並べる順番)です。編者から送られてきた執筆要項によれば、人物についての項目ではその人の伝記的な情報にも触れることが求められています。この要請を満たしつつ辞典項目を書くやり方は、大まかにいってふたつあります。

  1. フッサールの思想の発展を、伝記的な情報に逐次言及しながら時系列にそって概説する
  2. フッサールの伝記的情報を最初にまとめたあと、哲学的な話題を体系的に概説する

これらのうち、今回は2の方針を採用しました。というのも、法や社会に関するフッサールの議論はどちらかというと散発的に行われたものであるため、時系列に沿ってその発展を再構成することが難しいからです。そうした再構成はたしかに不可能ではないでしょう。しかし、それをやろうとすると、フッサールがはっきりと書いていないことについてあれこれ推定を重ねる必要がでてきます。1500語以内という制約のなかでこうした議論をすることは現実的ではありません。また、もし仮に字数制限内でこうした再構成ができたとしても、そこにはたくさんの推定が含まれることになります。それをやると、おそらく、「専門家のあいだで意見が大きく割れるような話はなるべく織り込まない」という基本方針に背くことになってしまいます。

「伝記的情報の提示に続いて、体系的な観点からの概説を行う」という構成が決まりました。これで項目の具体的な内容、つまり取り上げるトピックについて考えることができます。しかし、ここでも難しい選択を迫られることになります。それは、フッサールが法哲学や社会哲学に与えた影響を中心に話を組み立てるのか、それとも、フッサール自身の法哲学的・社会哲学的な議論を中心に話を組み立てるのかというものです。語数制限を考えると、両方を十分に取り上げることはできそうにありません。どちらも辞典の趣旨には合致しており重要でもあるのですが、今回は、フッサール自身の法哲学的・社会哲学的な議論に重点を置くことに決めました。これにはいくつかの理由があり、もっとも大きな理由のひとつは、影響関係をひとつずつ概観しようとすると話が散漫になりそう(事実の単なる列挙になりそう)だからというものです。

ここまでくれば、項目の詳しい構成を決めることはそこまで難しくありません。法や社会についてのフッサールの議論は、「共同体と規範」というトピックを中心にして繰り広げられます。したがって辞典項目でもこのトピックを中心にして話を進めることにして、そこから逆算して関連トピックを並べる構成にすればいいということになります。そのようにした結果、本項目の節構成は次のようになりました。

  • イントロダクション
  • 社会的現実の構成
  • 社会的作用
  • 共同体と規範
  • 社会倫理学

以下では、これらの節ごとに項目の内容を簡単に紹介します。

辞典項目の内容紹介

イントロダクション

この箇所ではフッサールの伝記的な情報を記しています。とはいえ、フッサールの生涯を詳しく振り返るとそれだけで1500語すべてを使うことになってしまってもおかしくありません。というわけで、言及するエピソードをきっちり絞り込まなければなりません。選択の基準は、ここでも、「本項目の中心トピックに関係するか」どうかです。そのため、たとえば「もともとは数学者だったがブレンターノの影響で哲学に転向した」とか、「ゲッティンゲンで教授職を得て、その後フライブルクに移った」とかいった話は(泣く泣く)カットすることになりました。そのかわりに、フッサールの政治的な見解やその背後にありそうな複雑なアイデンティティに関連する話題を織り込んでいます。というのも、法や社会についてのフッサールの哲学的見解を理解するためには、フッサールが当時の社会をどのように捉え、自分自身をそこにどうやって位置づけたのかを知っておく必要がありそうだからです。具体的には、「フッサールは当時オーストリア帝国の一部だったプロスチェヨフ(プロスニッツ)の世俗的なユダヤ人家庭に生まれたが、のちにプロテスタントに改宗した。また、フッサールは自分自身をドイツ人とみなしていたようだし、政治的にもプロイセンを支持していたようだ」といった感じのことを書きました。

イントロダクションでは、フッサールがのちの法哲学・社会哲学・社会科学に与えた影響についても、ミュンヘン・ゲッティンゲン学派やシュッツとその周辺を具体例として挙げつつ、ごく簡単に触れました。しかしそれと同時に、こうした影響がおもにフッサールの生前出版された著作を通じたものであること、それらの著作では法や社会はほとんど直接的には論じられていないことも指摘しています。つまり、この文脈でフッサールが与えた影響というのは、その大部分が、「法や社会といった個別のトピックにも適用可能な一般的な考え方を提供する」というかたちのものだというわけです。このことを確認したうえで、この節の最後では、フッサールが独自の社会哲学の構想を持っていたことが遺稿の出版によってわかったという趣旨のことを述べました。すでに述べたように、この構想を概観するのが本項目の主要な目的です。

社会的現実の構成

フッサールの社会哲学を理解するための鍵のひとつは、「構成(Konstitution)」という概念です。というのも、フッサールは、国家や法律や習俗や教会といった社会的対象を「それらは意識においていかに構成されるのか」という観点から論じる構想を持っていたからです(この構想は1913年に出版された『イデーンI』の第152節で語られています)。そしてフッサールは『デカルト的省察』(1931年)のなかで、社会的な対象は主体のあいだのコミュニケーション(フッサールの用語では「社会的作用(sozialer Akt)」)によって構成されると主張しています(第58節)。このことは、それ自体としては分かりにくい発想ではないはずです。私たちが(主に言語を通じて)やりとりをしないかぎり、国家や法律や習俗や教会といったものは存在しそうにないからです。

しかし、私たちのコミュニケーションが社会的対象を生み出すのだ、コミュニケーションがそれらを「構成」するのだという発想は、「フッサールにとって構成とは何か」という問題をややこしくしてしまいます。フッサールによれば、社会的対象だけでなくありとあらゆる種類の対象が意識において構成されます。たとえば、自然のなかの物的対象も意識において構成されるものとされます。ここでの「構成」を社会的作用と社会的対象のあいだに認められる「構成」とまったく同じものとみなすと、フッサールは物的対象さえも意識が生み出したものだと考えていることになってしまいます。しかし、こうした極端な観念論としてフッサールの立場を理解することは、多くのフッサール研究者が避けようとしていることです。「専門家のあいだで意見が大きく割れるような話はなるべく織り込まない」というのがこの項目の基本方針のひとつですから、こうした問題を放置するわけにはいきません。

この項目では、「フッサールにとって構成とは何か」という問題に深入りはせず、かといって上のような難題を放置するわけでもないようなミニマルな解釈を提示しました。このミニマルな解釈は、次のように言い表すこともできます(項目での実際の言い回しはこれとは違うものです)。

「ある対象が意識において構成される」という主張は、少なくとも、「その対象が私たちに実際に現れるような意識体験がある」という主張を含む

このミニマルな解釈にそって理解されるかぎり、「物的対象は意識において構成される」というフッサールの主張の一番の要点は、それほど極端なものではなくなります。というのも、フッサールがここで最低限言いたいことは、「物的対象が私たちに実際に現れるような意識体験がある(それは知覚だ)」というものにすぎないからです。そしてこのように理解するならば、社会的対象の構成がそうした対象の創造として語られていることについても、特に解釈上の問題を引き起こさずに扱うことができます。この文脈でフッサールが最低限主張したいことは、「社会的対象が私たちに実際に現れるような意識体験がある(それは、社会的対象を生み出す社会的作用、つまりコミュニケーションだ)」ということになるからです。

ミニマルな解釈についてもう少し補足的なことを書いておきます。この解釈によってフッサールから引き出される主張、「社会的対象が私たちに実際に現れるような意識体験がある(それは、社会的対象を生み出す社会的作用、つまりコミュニケーションだ)」は、そのものとしては異論の余地を残しているでしょう。しかし、このミニマルな解釈を採用すれば、フッサールを極端な観念論者に仕立て上げる必要はなくなります。多くの専門家が忌避するこうした帰結が回避できることは、フッサールの見解に最大公約数的な解説を与えるという辞書項目にとっては十分な成果です。また、ミニマルな解釈は、「フッサールにとって構成とは何か」という問いに完全な答えを与えないかもしれません。しかし、構成に関する一般的な議論をさらに掘り下げることは、法哲学と社会哲学に関する辞典の項目のなかでは、必要とされないはずです。

社会的作用

続く節では、社会的作用とは何かが概説されます。ここでまずもって指摘しなければならないのは、「社会的作用」という用語が、フッサールとともにゲッティンゲンを拠点としていたアドルフ・ライナッハという現象学者によって導入されたものだということです。『民法のアプリオリな基礎』(1913年)*1というインパクトのあるタイトルを持つ著作のなかで、ライナッハは、伝達や約束や命令や依頼といった「他人に差し向けられ他人による受け取りを必要とする」体験を社会的作用として分類し、論じているのです。同書に登場する論点のうち、目下の話題にとって重要なのは、社会的作用は社会的対象を生み出すというものです。ライナッハによれば、たとえば約束は、何かを約束をする人とそれを受け取った人のあいだに契約関係を生み出します*2

社会的作用に関するライナッハのこうしたアイディアは、あきらかに、「社会的対象は社会的作用によって生み出される」というフッサールの主張の背景となるものです(ただしフッサールは関連する文脈でなぜかライナッハの名前に言及しません)。しかしフッサールは、ライナッハの見解をそのまま繰り返しているわけではありません。ライナッハは「社会的作用は社会的対象を生み出す」という見解に例外を認めていました。他人に何かを伝えること、つまり伝達(Mitteilung)は、社会的対象を生み出すわけではないというのです。それに対してフッサールは、1931年に書かれたある草稿のなかで、(友好的な)伝達はその発信者と受け手のあいだに共同体(Gemeinschaft)を作り出すと述べています*3。また、ライナッハが共同体についてはほとんど何も論じていなかったということも、ここで指摘しておいていいでしょう*4。これでこの項目の中心トピックのひとつにたどり着いたことになります。

共同体と規範

続く節では、フッサールの共同体論が、そこでの規範の役割と一緒にごく簡単に整理されます*5。共同体というものを、フッサールはかなり広い意味で捉えています。前節の最後で触れたように、フッサールにとっての共同体は、私が誰かに何かを伝達すれば、それによって私とその誰かのあいだに成り立ってしまうものだからです。すると、例えば私が誰か知らない人に聞かれて最寄駅までの道を教えたときにも、私とその人のあいだには(おそらくその場かぎりの短命な)共同体が成り立つことになります。しかしこれは、私たちが日常的に(あるいは社会科学において)「共同体」と呼ぶものとは、だいぶかけ離れているはずです。こうした見解の帰結として、フッサールは共同体にはいろいろな種類があるということを認めます。こうして私たちが狭い意味で共同体とみなすものも、こうしたさまざまな種類の共同体のなかに含まれることになります。すると問題になるのは、さまざまな種類の共同体はどうやって区別されるのかということです。

さまざまな種類の共同体をフッサールが論じるときに、規範(Normen)という概念が重要な役割を果たします。フッサールによれば、共同体の存在にとって規範はかかせないというのです*6。とはいえ、フッサールはここで、どんな共同体にも共通する一揃いの規範があるという主張をしているわけではもちろんありません。フッサールのポイントはむしろ、共同体にはそれぞれの異なる規範があるというものです。こうした見解にもとづいて、フッサールは、ある共同体のなかで「規範に適っており正常である(normal)」ことは、別の共同体のなかでは「非正常(anomal)」でありうる(そしてその逆も成り立つ)というようなことを論じています*7。また、共同体ごとに異なる規範があるという発想は、国家と実定法の関係についてのフッサールの議論の背景にもなっています。フッサールは1910年に執筆されたある草稿で、法的規範を強制規則(Zwangsregeln)として特徴づけ、それを非強制的な規範としての習俗(Sitte)から区別したうえで、国家の統一を法の統一とみなします*8。また、フッサールは同じ草稿のなかで、法的な規範の起源を当該の共同体の成員の統一された意志に求めてもいます*9。すると、フッサールにとって国家もまた、その成員の意志の統一によって成立したものだということになりそうです。そのためフッサールは、(少なくともこの草稿では)社会契約説的な発想に接近していると言えそうです。また、国家を統一された意志によって説明するという考えは、国家(やその他いくつかの共同体)は「高次の人格(Personalität höherer Ordnung)」であり、独自の目的やプロジェクトを持つ点で個人と類比的であるというフッサールの見解とも、深く関係します*10

こうやって内容紹介をしてみると、この節は少しとっ散らかり度が高いような気がしてきました。しかしこの分量でこれ以上のことをやるのはなかなか難しいんじゃないかとも思います。

社会倫理学

最後の節では、フッサールの社会倫理学の構想がごく簡単に紹介されます。ここまで扱ってきたフッサールの社会哲学は、「共同体は何であるか」という記述的な問題に取り組むものです。しかしフッサールは、「共同体は何であるべきか」という規範的な問題についても、独自の理論の構想を持っていました。それが社会倫理学です。ここで手がかりになるのは、高次の人格としての共同体という発想です。フッサールによれば、個人が自分のプロジェクト(あるいは生き方)を倫理的な理想のもとで導いていくことができるのと同様に、共同体もそれ自身のプロジェクトを同様の理想のもとで導けるというのです*11。また、断片的にではありますが、フッサールは理想の共同体を「愛の共同体(Liebesgemeinschaft)」と呼んで論じています。そしてこの愛の共同体は、最終的には国家を不要にするものだ(そのためフッサールはある種のアナキストだ)という解釈がされることもあります*12

ここで私たちが気をつけなければいけないのは、フッサールは社会倫理学についてごく限られたことしか述べていないという点です。このことを忘れてはいけないよ(乏しい文献上の証拠から強引にいろんなことを言おうとするのはやめようね)、と(読者と自分に)釘を刺すことで、この項目は終わります。

おわりに

短い辞典項目だから解説も短くなるだろうと思ったら、そこそこの分量になってしまいました。しかしそのおかげで言い足りなかったことを書けたのでよしとします。また気が向いたらこういう解説エントリーを書こうと思います。しかしあまり期待はしすぎないでください。

*1:入手することはやや難しいかもしれませんが、この著作には翻訳があります。法の現象学について,民法の先験的基礎 | CiNii Research法の現象学について,民法の先験的基礎-2完- | CiNii Research

*2:ライナッハの関連する議論は、『ワードマップ現代現象学』(新曜社、2017年)の「8-2 約束」の下敷きになっています。これを読むことでライナッハの社会的作用論にも入門できるんじゃないかと思います。

*3:Hua XV, 423. このトピックについては、英語のものになってしまいますが、この論文が参考になります。フッサールの伝達(コミュニケーション)論について日本語で読めるものとしては、以下のものがあります。フッサールの言語行為論--「コミュニケーションの現象学」にむけて | CiNii Research

*4:こうした事情は、おそらく、ライナッハが若くして亡くなった(第一次世界大戦で戦死した)ことによると考えられます。

*5:この箇所は本当はもっと詳しく書きたかったのですが、分量の制約ゆえにかないませんでした。フッサールの共同体論については、この論文(英語)が簡潔かつ行き届いた整理をしています。

*6:Hua XV, 422. 『フッサール全集』(Husserliana, Nijhoff/Kluwer/Springer, 1950ff.)からの引用に際しては、フッサール研究の国際的な慣習にしたがって、「Hua」という略号に続き巻数をローマ数字で記し、そのあとにページ数をアラビア数字で記すという形式を用います。

*7:このあたりについて日本語で読める詳しめの概説としては、ザハヴィ『フッサールの現象学』(新装版、晃洋書房、2014年)の202–212ページが挙げられます。ただし私は、この翻訳のように「normal/normal」を「規範的」、「Normalität/normality」を「規範性」と訳すことにはあまり同意できません(ザハヴィの本の原著は英語なので、ドイツ語だけでなく英語の対応する言葉も挙げておきます)。「規範的」と「規範性」という訳語はそれぞれ、フッサール現象学をより広範に論じるときの重要キーワードになる「normativ/normative」と「Normativität/normativity」のために取っておくべきです。ちなみに私が思い出せるかぎりフッサールは「Normativität(規範性)」という語をほとんど使っていないはずですが、「normativ(規範的)」は初期から頻繁に使っています。

*8:Hua XIII, 106. こうした発想はハンス・ケルゼンのことを想起させるわけですが、このあたりについては八重樫徹さんが昨年に発表をおこなっています。これは、そのうち論文にもなるんじゃないかと思います。

*9:Hua XIII, 106

*10:国家は高次の人格であるという考えは、たとえば以下の箇所で論じられています。Hua XIV, 182, 405; XV, 415.

*11:この点は、フッサールが1924年に日本の雑誌『改造』に発表した論文「個人倫理の問題としての革新」で述べられています(Hua XXVII, 48–49)。

*12:Karl Schuhmann, Husserls Staatsphilosophie (Karl Alber, 1988)を参照。この本はフッサールの国家論についての貴重な二次文献でありいまでも同様の研究において参照されるべきものです。しかし個人的には、シューマンがフッサールに解釈を与える際の手続きには「お手つき」が散見されるという印象を持っています。この点については、たぶんそのうち何らかのかたちで論じることになるでしょう。