研究日誌

哲学と哲学史を研究している人の記録

尾高朝雄の生涯

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ちょっと前の話になりますが、上の論集に「現象学者としての尾高朝雄——1930年代の社会団体論を中心に」という論文を寄稿しました。日本哲学研究という文脈では尾高はそれほど中心的な人物ではないため、伝記的な事実についても調べ物をして書いてみたものの、提出した原稿では字数の都合でその箇所を大幅にカットせざるを得ませんでした。基本的なことが手短にまとまっていて割と気に入っており、このままお蔵入りになるのはもったいないと思ったので、丸ごと全部削除した段落に少し手を入れたものをここに公開します。もっと詳しいことが知りたいという場合には、末尾に挙がっている参考文献、とりわけ、金昌禄 「尾高朝雄と植民地朝鮮」(オンライン版はこちら)にあたってみてください。注1にも書いてあるように、以下の文章中の基本情報はこの論文に多くを負っています。

 

尾高朝雄の経歴を少しだけくわしく紹介しておこう*1。1899年1月28日、尾高朝雄は大韓帝国の釜山に生まれる。父次郎は当時第一銀行の釜山支店長であり(1903年5月に尾高家は帰国する)、母文子(ふみ)は同銀行の前身である第一国立銀行を創設した渋沢栄一の庶子である。また、父方の祖父は、渋沢の師であり後に実業家となる尾高惇忠である。尾高は東京高等師範附属小学校、同中学校、第一高校、東京帝国大学法学部政治学科を卒業したのち、1923年に京都帝国大学文学部に入学する。当初は米田庄太郎のもとで社会学を学んでいた尾高だが、1925年の米田の退官後は西田幾多郎が指導教官を引き継いだ*2。文学部を卒業したのち、尾高は法理学研究のために京都帝国大学大学院に進学するが、ただちに1928年3月に京城帝国大学法文学部助教授(政治学・政治史第二講座)に任命される。そして尾高は、着任8ヶ月後に政府の命を受けて欧州への留学に発つことになる。1929年春に欧州の地に立った尾高は、ベルリンとプラハを経由して、同年初秋に最初の目的地ウィーンに到着する*3。同地で尾高は法哲学者ハンス・ケルゼンのもとで学び、ケルゼンの学生だったアルフレート・シュッツやフェリックス・カウフマンと友人になる。1930年6月、尾高はウィーンからフライブルクに拠点を移す*4。大学退職後も同地に暮らしていたエトムント・フッサールの教えを受けることが目的だった。当時のフライブルクには尾高のほかに三宅剛一、臼井二尚、大小島真二が留学しており、四人はフッサール宅での私的なセミナーの機会を持つことになる*5 。フッサールの追悼文での尾高の回想によれば、このセミナーは隔週で月曜日に行われており、フッサールの私設助手だったオイゲン・フィンクも参加していた*6。また彼らは、フッサールの後任マルティン・ハイデガーのヘーゲル『精神現象学』講義を聴講したほか、フィンクやオスカー・ベッカーをチューターとして、フィンクとは『精神現象学』を、ベッカーとはハイデガー『存在と時間』をそれぞれ一緒に読んでいる*7 。その後尾高はフライブルクからウィーンに戻ると著書の執筆に専念し、1932年に『社会団体論の基礎づけ』を出版する。当時はまだ国際的な学問の言語だったドイツ語で、当時はまだ巨大国際企業ではなかったウィーンのシュプリンガー社から出版された同書は、フッサールに捧げられている。この直後に尾高は京城に戻り、1944年に東京帝国大学法学部に異動するまで同地で教鞭をとる*8。この時期の重要な著作としては、『国家構造論』(1936年)と『実定法秩序論』(1942年)が挙げられる。終戦後、尾高は東京大学法学部教授として多岐にわたる仕事を残す。特に言及すべきなのは、日本国憲法制定による主権の所在の変化をめぐる同僚宮沢俊義との論争(「ノモス主権論争」)、文部省作成の民主主義の教科書への関与、そしてユネスコ日本代表としての活動だろう。戦後にも尾高は著作を大量に残すのだが、ここでは、『自由論』(1952年)だけを挙げておく。同書は戦後の尾高の哲学的な主著と言えなくもない。だが、そう述べるのを躊躇してしまう事情もある。1956年5月15日、尾高は歯科治療中のペニシリンショックが原因となって急逝するのである。尾高の書斎に置かれた書類入れには、「現象学派の法哲学」と題された未完の原稿が残されていた*9

 

文献

Bruzina, R.  1989. “Die Notizen Eugen Finks zur Umarbeitung von Edmund Husserls “Cartesianischen Meditationen””. Husserl Studies 6, 97–128.

Otaka, T. 1932. Grundledung der Lehre vom sozialen Verband, Julius Springer.

尾高朝雄 1936. 『国家構造論』,岩波書店.

尾高朝雄 1938. 「フッサアル先生の永逝」,『法律時報』第10巻第8号,801–803.

尾高朝雄 1942. 『実定法秩序論』,岩波書店.(新版:尾高朝雄,『実定法秩序論』,書肆心水,2019年)

尾高朝雄 1952. 『自由論』,勁草書房.(同書の全体は以下の書籍にも収められている。尾高朝雄,『自由・相対主義・自然法——現代法哲学における人権思想と国際民主主義』,書肆心水,2018年)

尾高朝雄 1960. 「現象学派の法哲学」,尾高ほか編,『法哲学講座 第5巻(上)』,有斐閣,1960 年,193–196.

石川健治 2006. 「コスモス——京城学派公法学の光芒」,『岩波講座「帝国」日本学知 第1巻 「帝国」編成の系譜』,岩波書店.

臼井二尚 1990.「留学時代の思い出」,『哲学研究』第550号,609–617.

金昌禄 2014.「尾高朝雄と植民地朝鮮」,酒井啓哉・松田利彦編,『帝国日本と植民地大学』,ゆまに書房.(オンライン版がこちらから無料で入手可能)

 

 

 

*1:以下は、関する伝記的事実をもっとも詳しく集成した金 2014を全般的に参照しつつ、その他の典拠によって細部を補ったものである

*2:米田にはしばらく後任がつかず、西田はそのあいだ社会学の演習も受け持っていた(cf. 臼井 1990, 609)。

*3:cf. 尾高 1952, 1.

*4:cf. 尾高 1938, 29.

*5:cf. 臼井 1990, 612.

*6:cf. 尾高 1938, 29–30.

*7:cf. 臼井 1990, 612–613。フィンクは1930年の11月から12月にかけて尾高(とおそらくその他の三人)のためにフッサールの間主観性の現象学についても私的に講義しており、そのためのメモ書きが残されている(cf. Bruzina 1989, 105–110)。

*8:京城帝国大学時代の尾高を——その「ダークサイド」と呼ばざるを得ない面も含め——論じたものとして、石川 2006および金 2014が挙げられる。

*9:この原稿は未完のまま尾高 1960として出版されている。