この記事でも紹介したように、尾高朝雄は1930年にフライブルクでフッサールに学んだのですが、そのときフッサール一家と家族ぐるみの付き合いをしていたようです。
以下は、フッサール家でのクリスマスディナーに招かれたときの様子について、尾高が1935年に発表したエッセイ「エドムント・フッサール先生」で語ったことです。
食堂には大きなワイナハツ・バウムが飾られ、そこで私の子供はグリムのメルヘンの贈物を戴いた。〔フッサール〕先生自ら先にたって童顔を輝かせつつクリスマスの童謡を歌い、私の子供たちやお孫さんを食堂に導かれたお姿は、今も私の目の前にちらついて居る*1。
おそらく同じ夜の話を、尾高は1938年のフッサールの追悼文でも繰り返しています。
私は家族と共にフライブルグに滞在していたので、時折家庭的な招宴に列するの光栄に浴し、そこで令息や令嬢にも紹介された。〔……〕クリスマスの夜には、各地からそれら一門の方々が集まって、子供本位の和やかな団欒が催された。お孫さんと私の子供とを両手に引いて、童謡を唱いながら美しく飾られた大きなクリスマス・ツリィの周りを廻られた先生の姿は、いまも眼前に彷彿としている*2。
『論理学研究』や『イデーンI』の著者が子供と手を繋いで童謡を歌う姿というのは、たしかにかなりのインパクトがありそうです。それを実際に目撃したら、一生の思い出になっても不思議ではありません。