研究日誌

哲学と哲学史を研究している人の記録

「フッサールの社会哲学」補遺その2:「構成」について

「その1」の最後で「その1」は「その2」があることを保証するものではありませんという逃げをいちおう打っておきましたが、実際には、いくらでも補足を書き足せます。今回は、構成に関する節についてもう少し。

「社会的現実の構成」という節では、フッサールの構成概念について、以下のように定式化できるミニマルな解釈を提出しました。

「ある対象が意識において構成される」という主張は、少なくとも、「その対象が私たちに実際に現れるような意識体験がある」という主張を含む

そのうえで私は、次のように述べました。

このミニマルな解釈にそって理解されるかぎり、「物的対象は意識において構成される」というフッサールの主張の一番の要点は、それほど極端なものではなくなります。というのも、フッサールがここで最低限言いたいことは、「物的対象が私たちに実際に現れるような意識体験がある(それは知覚だ)」というものにすぎないからです。

これら一連のフッサール解釈を、私はもちろん正しいと思っています。しかし、私自身のフッサール解釈はミニマルな解釈の範囲に収まるわけではありません。というのも、フッサールは「構成(する/される)」という言い回しをつかってもっと踏み込んだ主張を頻繁にするからです。

たとえば、1908年の秋に書かれたある草稿で、フッサールは次のように述べています。

世界は意識において構成される。世界は、意識との関係においてのみそのようなものなのである。〔……〕「〔ある家〕が存在する」が意味するのは、意識が存在するということ、つまり、その家がそのなかで構成され、そのなかで知覚可能・規定可能・認識可能であるような意識の合法則的な可能性が[成り立つ]ということである。その家の存在とは、意識およびこれこれのように現実に侵攻していたり進行可能であったりするような意識の連関についての、いわば別の「表現」にほかならない*1

この箇所はかなり重要で、解説をはじめるたくさんのことを書けてしまいそうなのですが、ここではやめておきましょう*2。そうした解説なしでも、フッサールがこの箇所で「世界は意識において構成される」という言い回しでもって世界の存在を意識に相対化していることはあきらかなはずです。世界は意識において「構成される(sich konstituieren)」という受け身の表現(ドイツ語原文では再帰動詞)を使っているということは、フッサールの構成概念を観念論的主張から遠ざけてくれるのかというと、どうやらそういうわけでもないようなのです。

世界の存在を意識に相対化させるような見解を、フッサールはもちろん公刊著作でも表明しています。たとえば『イデーンI』第50節を読んでみましょう。翻訳は私のものです。

そのため、存在について語るときの普通の意味が転倒する。私たちにとって第一のものであるような存在は、それ自体としては第二のものであり、つまり、〔本当の意味で〕第一のものとの「関係」においてのみそのようなものとして存在するのである。しかし、盲目的な法則秩序によって物の秩序と結合が観念の秩序と結合に基づかなければならないようにされてしまったかのようになっているわけではない。レアリテートは、個別に受け取られた物のレアリテートであれ、世界全体のレアリテートであれ、(私たちの厳密な意味での)本質に即して、独立性を欠いているのである*3

ひとつだけ補足しておくと、この文脈での「レアリテート(Realität)」は、時空的で因果的であるという特徴のことして理解しておけば、それで差し支えないでしょう*4。ここさえはっきりすれば、上の引用の主旨はわかるはずです。そして、フッサールが世界の存在に関して観念論的な見解に立っていないと解釈するのが難しいということも、よりはっきりするでしょう。

では、この観念論がより正確にはどういう立場で、フッサールはどういう根拠でこの立場が正しいと考えているのでしょうか。そしてフッサールはどういう経緯を経て観念論的な立場に至ったのでしょうか。この辺りは、いまでもフッサール研究の未解決問題だと言っていいでしょう。

フッサールの社会哲学からはだいぶ離れてしまいました(もちろんフッサールにとっては、今回の話と社会哲学の構想は地続きです)。もしこのシリーズに「その3」があるならば、そのときにはもっと社会哲学っぽい話題を選びたいところです。

*1:Edmund Husserl, Transzendentaler Idealismus. Texte aus dem Nachlass (1908–1921), edited by R. D. Rollinger & R. Sowa, Husserliana vol. XXXVI, Kluwer, 2003, 29. 角括弧内は編者の補足。

*2:『現代思想』の汎心論特集号に私が寄稿した論文「現象学的観念論と汎心論:フッサールの逡巡」が、この引用を含め、フッサールの観念論的な立場に関する解説としても読めると思います。より本格的な議論をお望みならば、まずは佐藤駿『フッサールにおける超越論的現象学と世界経験の哲学 』(東北大学出版会、2015年)を読むことをお薦めします。良書です。

*3:Edmund Husserl, Ideen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie, vol. 1, Max Niemeyer, 1913, pp. 93–94. この引用を含む『イデーンI』第2篇の大部分の試訳が、ここで公開されています。

*4:ついでに補足しておくと、フッサールは「レアリテート」という語を、時空的で因果的であるという特徴を備えたものを指すために使うこともあります。なお、フッサールの既存の翻訳では「レアリテート」ではなく「実在性」という訳語が採用されることが多いです。