研究日誌

哲学と哲学史を研究している人の記録

フッサールの科学観

フッサールはある講義で、次のように述べています。

人間の認識を並外れて拡張するためには、分業の必要が拒否しがたくでてくる。もともとはひとつの学問が、数学、物理学、生理学等々に分かれたのだ。そして、こうした仕方での制限によってのみ、われわれの時代を特徴づける、予想もしなかった偉大な前進が可能になったのである。しかし、次のことは十分に注意しなければならない。それは、つぎつぎと特殊な仕事へとこうして制限を行うことによって人間の価値と威厳が作られているわけではまったくない、ということだ。それは必要悪でしかない。それは、人間本性の制限からの、悲しむべき帰結なのだ! 完全な人間であろうと努力する完全な研究者は、したがって、自分が従事する学問がより一般的でより高度な人間の認識目標に対してもつ関係を、けっして目から離してはならない。ある狭い専門に職業的に制限されることは必要である。しかし、そこに完全にまったく没頭することは責められるべきことだ。とりわけ責められるべきであるよう見えるにちがいないのは、自分の従事する学問とその価値や威厳、またその学問が人間の認識一般の領域において占める位置に関する一般的な問いを、どうでもいいとみなす者だ*1

後期の著作『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(1936年)に慣れ親しんだ人なら、これを読んでもとくに驚かないでしょう。いかにもフッサールが言いそうなことだからです。しかし上の引用は、実はそういう人にとっても驚きを呼ぶはずのものです。というのもこの一節は、フッサールがハレ大学で1887/88年冬学期に行った「数学の哲学の歴史的概観」講義の一部だからです。学問は人間がより完全になるためにあるということ、近代科学がそうした目的を阻害してしまっていること、しかしだからといって分業は避けられない(つまり近代科学のやり方を捨てるわけにはいかない)ということ、こうしたことを、フッサールは哲学者としてのキャリアの最初期から気にしていたわけです。

あまりよく知られていない箇所なので紹介しました*2

*1:Edmund Husserl, Studien zur Arithmetik und Geometrie. Texte Aus Dem Nachlass (1886–1901), edited by I. Stromeyer, Husserliana vol. 21, Martinus Nijhoff, 1983, p. 231.

*2:とはいえ、この箇所はこれまでのフッサール研究でまったく触れられてこなかったわけではありません。たとえば次の論文を参照。R. Philip Buckley, "Husserl on the Communal Praxis of Science", in Husserl and the Sciences: Selected Perspectives, edited by R. Feist, University of Ottawa Press, 2004,  chap. 10 (pp. 218–219).