研究日誌

哲学と哲学史を研究している人の記録

レヴィナスのかつての知名度

上の記事に関連した、おまけのような話。フッサールのナイフ研ぎのエピソードは、あのレヴィナスがフッサール本人から聞いたものでした。こうした由来はナイフ研ぎのエピソードのインパクトを高めているといっていいはずです。しかし、前回の記事で引用した文章をよく見てみると、そこでのレヴィナスの扱われ方は、この哲学者が当時は現在ほど高名ではなかったということを示唆しています。

それぞれをもういちど引用したうえで確認してみましょう。まずは『フッサール全集』第1巻の編者シュトラッサーの序文から。1950年に発表された文章です。

自分の哲学の方法をつねにより完全なものにし、しかも十分な体系的な定式化を犠牲にしてまでそうするというフッサールの傾向を示すものとして、E・レヴィナス博士が編者〔シュトラッサー〕に打ち明けた次のような逸話がある。(いま言及した)ストラスブールからの滞在者に対してフッサールがあるとき伝えたことによれば、フッサールはかつて子供のときにポケットナイフを贈られた。だが、フッサールはその刃が十分に鋭くないことを察して、 それを研いだのだった。ナイフを鋭くすることだけを考えていたので、フッサール少年はその刃がどんどん小さくなってだんだん減っていくことに気づかなかった。レヴィナスが確かなこととして認めている話によれば、子供の頃のこの思い出をフッサールは悲しそうな調子で伝えており、それはフッサールがこの思い出に象徴的な意味を与えていたからだ*1

注目したいのは「(いま言及した)ストラスブールからの滞在者」というフレーズです。おそらくシュトラッサーは、この箇所で単に「ストラスブールからの滞在者」という言い方をすると、それがレヴィナスを指すのだということが分かりにくくなると判断し、「いま言及した」を括弧内に書いたのだと思います。こうした補足は、2022年現在では不要だといっていいはずです。少なくとも、『フッサール全集』の序文のような文章、つまり、フッサールや現象学の研究者に向けられた文章のなかでは、そうした補足はまったくいらないでしょう。なぜなら、レヴィナスがストラスブールからフライブルクに留学したということは、現在では、専門的な現象学研究者のあいだならば一般常識だといってよさそうなことだからです。すると、シュトラッサーによる補足は、シュトラッサーがこのことを専門的な世界における一般常識とみなしていなかったことを示していることになります。そのため上の引用は、レヴィナスの知名度が1950年代当時の研究者たちにとってそこまで高くなかったということを示す、ちょっとした証拠になりそうです。

実際のところ、レヴィナスの(現象学者としての)主著のひとつである国家博士論文『全体性と無限』が出版されるのは、この序文が出版されてから約10年後の1961年です。私はレヴィナスを専門的に研究しているわけでないのでそれほど強く断定できるわけではないですが、1950年代には、レヴィナスはまだ大哲学者という扱いを受けていたわけではない、と言っても差し支えなさそうです。こうした主張の根拠として、サロモン・マルカ『評伝レヴィナス』の次の箇所を引くことができるかもしれません。

〔ジャン・〕ヴァールは哲学コレージュを20年にわたって牽引したが、レヴィナスの姿は60年代初頭にかけてはあまり多くみられなかった。/1947年以降、ヘーゲルの体系的読解と共に、出会った時にはすでに晩年を迎えていた師シュシャーニのしたでの原典の徹底的検討とタルムード研究を通じて、ユダヤ教がレヴィナスの主たる関心事となった。彼は書かなくなり、書いたとしてもほんのわずかだった。〔……〕/だが、そうした時期にあってもヴァールはレヴィナスを探し出し、国家博士論文の審査を受けさせた。レヴィナスの論文が、その当時多く見られた社会学的あるいはマルクス主義的な論文と一線を画すものだったため、この論文審査は1961年のソルボンヌにあって、一つの事件という様相を呈するものとなた、それだけでなく、思想上の「未踏の地」が顕わになりつつあるという予感さえあった。「私たちが審査することになった博士論文は、後にそれを主題としていくつもの博士論文が書かれることになるほどのものだった」とヴァールは後年述べている*2

あるいは、時代は少し下りますが、1964年にノーベル文学賞を辞退したサルトルが、そのことを讃えたレヴィナスからの手紙を受け取って、周りの人に「しかし、このレヴィナスというのは何者だね」と尋ねたというエピソートも、ここで引き合いにだせるのかもしれません*3

次に、1981年に最初に出版された田島節夫『フッサール』からの引用を見てみましょう。

幼い頃からのフッサールの人となりを示すつぎのような逸話がある。ある日、彼はナイフを土産にもらったことがあるが、切れ味があまりよくなかったので、一生懸命にこれを研ぎにかかった。ところがナイフを鋭くすることばかりに気を取られていた少年フッサールは、鋼の部分がだんだん小さくなり、ついには無くなってしまったことに気がつかなかった、というのである。この話は、フランスで現象学研究の先達として知られたエマニュエル・レヴィナスが、晩年の本人の口から聴いたものであるが、フッサールはこの幼時の思い出に象徴的意味を託していたようで、その話をするときは鎮痛な調子であった、という*4

この一節からも、1980年代初頭の日本ではレヴィナスがそこまでよく知られていなかったということが伺われます。そうでなければ、レヴィナスの名前に言及するのに「フランスで現象学研究の先達として知られた」という言い方はしないはずです*5。このことは、レヴィナス関連の書籍の当時の出版状況を踏まえればそれほど不思議な話ではなくなるように思われます。先に言及した『全体性と無限』の最初の翻訳が出版されたのが1989年、そして翻訳者の合田正人による日本語で読める最初の本格的なレヴィナス論(といっていいはずの本)『レヴィナスの思想——希望の揺籃』(弘文堂)が出版されたのがその一年前の1988年です*6。さらに遡ると、1986年に今はなき『エピステーメー』誌がレヴィナス特集を組んでいます。こうした事実が示唆するように、日本でレヴィナスが本格的に論じられ始めたのが1980年代後半だったのだとすると、1981年の時点で田島が(おそらく広い範囲の読者を意識しながら)上のような書き方をすることは、納得のいく話になるはずです。

 

*1:Stephan Strasser, "Einleitung des Herausgebers", in Edmund Husserl, Cartesianische Meditationen und Pariser Vorträge, edited by S. Strasser, Husserliana vol. I, Martinus Nijhoff, 1950, p. xxix.

*2:サロモン・マルカ『評伝レヴィナス 生と痕跡』、斎藤・渡名喜・小手川訳、慶應義塾大学出版会、2016年、205–206ページ。

*3:この話もマルカの本に記されています(『評伝レヴィナス』、395–396ページ)。サルトルの発言も同書のこの箇所からの引用です。

*4:田島節夫『フッサール』、講談社学術文庫、1996年、39–40ページ。

*5:ちなみに田島節夫はベルクソンの翻訳者としても知られるフランス哲学研究者です。そのため田島は、フランス語圏でのフッサールの論じられ方について、おそらく当時の日本の標準的なフッサール研究者よりもよく知っていたのではないかと思います。

*6:この本は2000年に『レヴィナス——存在の革命にむけて』と改題されてちくま学芸文庫から再版されます。