研究日誌

哲学と哲学史を研究している人の記録

高橋里美の胆力(おまけ)

前々回と前回のおまけ。

フッサール宅での「現象学は哲学のひとつでしかない(大意)」発言のあとに、高橋と務台は飲み屋で「おいどうするよ」みたいな相談をしたらしい。

教授の家を辞して帰路小さな地酒のビール屋でビールを飲みながら、老先生をあんなに興奮させてしまったことについてどうしようかと相談しあった。両人〔務台と高橋〕はじつは夏の学期にはマールブルクに出かけてハイデッガーの実存哲学の講義をきく予定にしていたのだが、こんなことがあってマールブルクへ去るのはどうも老教授にすまない。ハイデッガーを割愛していま一学期老教授のもとに留まろうではないかということになった。/その次の週の面会の時には、フッサールは全く今まで通りの様子で、前回のことなど全く忘れているようであった。その後もそうであったが、両人は引き続いて夏の学期老教授の許にとどまることにきめた。そのうちハイデルベルヒから世良寿男君がやってきて、夏の学期も三人でたのしく過ごすことができた*1

「こんなことがあってマールブルクへ去るのはどうも老教授にすまない」というくだりがどういうことかいまひとつわからないのだけど、「これで来学期にマールブルクへ行ったらフッサールに捨て台詞を吐いたことになっちゃうぞ」みたいなことを二人は話し合ったのだろうか。

上の引用でも述べられているように、務台と高橋がフライブルクに留学していた時期に、ハイデガーはマールブルクで教えていた。フッサールの後任としてハイデガーがフライブルクに戻るのは1928年だ。この事実を踏まえると、謎がひとつ出てくる。1927年夏学期のあとに帰国したはずの高橋の送別会の幹事が、どうしてハイデガーの役目になったのだろうか。こういうときに最初に開くべき本はカール・シューマンの『フッサール年代記』(Husserl Chronik)で、それによると、ハイデガーは1927年の10月12日頃に、『ブリタニカ百科事典』のための最初の原稿について議論する目的で、フライブルクにフッサールを訪ねてきたようだ*2。というわけで、高橋がフライブルクを発ったのが1927年のこの時期だとしたらいちおう辻褄が合う。

そのうち続きの調査をするかも。

*1:務台理作「留学時代の高橋里美さん」、『思索と観察——若い人々のために——』、勁草書房、1968年、176ページ。

*2:Karl Schuhmann, Husserl Chronik. Denk- und Lebensweg Edmund Husserls, Husserliana Dokumente, vol. I, Martinus Nijhoff, 1977, p. 325.