フッサール現象学の成り立ちにとって一番重要なフッサール以外の人の手による本を一冊挙げろと言われたら、私は一瞬たりとも迷わずブレンターノの『道徳的認識の起源』を選びます。フッサールの現象学のポイントが「起源を問うこと」にあるのだとしたら、その発想の元ネタはまずもってブレンターノにあるはずです。
幸いなことにこの本には翻訳があります。
- フランツ・ブレンターノ「道徳的認識の源泉について」、水地宗明訳、『世界の名著 ブレンターノ・フッサール』、中央公論社、1970年。
残念なことに注の大部分が割愛されてしまっているのですが、ブレンターノの議論の概略を知るためなら、とりあえずこれを読むだけでも十分です。翻訳も基本的によくできていると思います(ただしこの翻訳での括弧の使い方は現在の通例とは異なり、〔〕が現著者による補足で、()が訳者による補足となっているのでその点には気をつける必要があります)。しかし、重要なところであるにもかかわらず誤訳をしてしまっていると思われる箇所が少なくともひとつあります。ブレンターノはもっと読まれるべきだとつねづね思っている(そして思っているだけでなくそう表明している)研究者の務めとして、この箇所を指摘しておきましょう。
該当箇所は以下の部分です。誤訳と思われる箇所は太字にしました。
しかしいまや、もうひとつの、はるかに重大な問題が登場いたします。すなわち、いかなる教会的および国家的権威、一般的にはいかなる社会的権威にも依存しないで、自然(本性)そのものによって教えられる道徳的真理が存在するか。自己の本性上、普遍的妥当的であり、疑ってはならないものであり、すべての場所とすべての時代の人間に対して、否、(人間だけでなく)およそ思考し感情をもつあらゆる種類の存在に対して妥当し、しかも私たちの心的能力によって十分に認識されうる、という意味において自然的(本性的)である道徳律が存在するか、ということです*1。
翻訳の底本となっている1899年の初版から、この箇所の原文を引きましょう。上の太字と対応する箇所を太字にしておきます。
Aber nun tritt die andere, viel wichtigere Frage an uns heran: gibt es eine unabhängig von aller kirchlichen und politischen und überhaupt von aller sozialen Autorität durch die Natur selbst gelehrte sittliche Wahrheit? gibt es ein natürliches Sittengesetz in dem Sinne, daß es, seiner Natur nach allgemeingültig und unumstößlich, für die Menschen aller Orte und aller Zeiten, ja für alle Arten denkender und fühlender Wesen Geltung hat, und fällt seine Erkenntnis in das Bereich unserer psychischen Fähigkeiten?*2
『世界の名著』版の翻訳は、太字部分をdaß節の一部として訳しているわけですが、これは誤りだと思います。実際にはこのdaß節は"Geltung hat"のところで終わっており、"und fällt"以下は新しい疑問文となっているはずです。
というわけで、改善案は以下の通りです。
しかしいまや、もうひとつの、はるかに重大な問題が登場いたします。すなわち、いかなる教会的および国家的権威、一般的にはいかなる社会的権威にも依存しないで、自然(本性)そのものによって教えられる道徳的真理が存在するか。自己の本性上、普遍的妥当的であり、疑ってはならないものであり、すべての場所とすべての時代の人間に対して、否、(人間だけでなく)およそ思考し感情をもつあらゆる種類の存在に対して妥当するという意味において自然的(本性的)である道徳律が存在するか、そして、そうした道徳律を認識することは私たちの心的な能力の範囲内にあるのか、ということです。
この引用のすぐあとで本人が明言するように、ブレンターノはこれら一連の問いすべてに「イエス」と答えます。というわけでこの一節は、ブレンターノが自分の基本的な立場を(疑問文というかたちで)簡潔に述べた大切な一節だといえます。
私の記憶違いでなければ、この箇所が誤訳なのではないかという指摘は、『道徳的認識の起源』の読書会をしていたときに村田憲郎さんが最初にしたものだったはずです。この場を借りて村田さんにはお礼を申し上げます。