研究日誌

哲学と哲学史を研究している人の記録

ブノワの新刊『現象学から実在論へ:意味の限界』

ジョスラン・ブノワの新著がドイツ語で出版されたようだ。

せっかくなので上記リンク先の紹介文を訳しておこう。

実在論的な現象学というものなどない。こうした考えを建築線として、ジョスラン・ブノワは本書で彼のこれまでの仕事をまとめている。それらの仕事は現象学からどんどん遠ざかり、現実的なものの後ろには回り込めないということを強調する文脈的実在論へと向かうものである。この実在論によれば、現実性は有意味なものが備えていたり備えていなかったりする性質では決してない。現実性はむしろ、つねに現にあり、私たちがそのつどすでに持っている何かなのである。しかし、私たちがつねにすでに現実的なもののなかで生きているということは、それがとってつねにすでに私たちに理解できるということを意味しない。そして、私たちがそれを理解しないということは、現実的なものからリアリティをまったく奪わない。むしろ、現実性のカテゴリーを意味のカテゴリーとして理解することが、リアリティから驚愕させ期待を裏切らせる力を奪うのである。それにもかかわらず、まさしくこのように意味を優先する偏見こそが、ブノワにとって、カントの超越論的転回以来の哲学において支配的だった。この偏見がもっとも強力に示された姿は、フッサールとハイデガーの現象学そしてフランスにおけるその受容のなかに見いだされる。しかし、マルクス・ガブリエルが近年発展させた「新しい実在論」に対してもブノワは反論し、「意味野(Sinnfelder)」の存在論は軽率にも存在と意味をひとつにしてしまっていると述べる。このように、ブノワの単著はドイツ哲学の古典に対峙するだけでなく、フランスとドイツの現代哲学のあいだの対話を革新するものでもある。

「現実性のカテゴリーを意味のカテゴリーとして理解することが、リアリティから驚愕させ期待を裏切らせる力を奪うのである」という批判は、それこそフッサール以降の主流派現象学が(前期)フッサールに差し向けつつ(ときに後期フッサールと一緒に)乗り越えようとしていたもののはずだ。この点に関する見通しを与えてくれる論文として、たとえば、『フッサール研究』第8号に掲載されたラズロ・テンゲィの「見出された経験」がある。

 そんなことぐらいブノワはよくわかっているだろうから、本書での現象学批判は、いま述べたようなタイプの反論を織り込み済みものになっているんじゃないだろうか。あと、現象学の伝統のなかにも意味概念に中心的な役割を与えない非主流派として初期の現象学派が挙げられるわけだけど、その辺の扱いがどうなっているのかも気になる(現実は私たちがつねにすでに「持っている(haben)」という話を、ブノワはたしか以前にはコンラート=マルティウスに言及しながらしていたはずだ)。というわけで、久しぶりにブノワの仕事をちゃんと読んでみようかという気になった。

 

いま気づいたけど、この本はサブタイトルがストローソンのカント本と同じだな(「Bounds」の「限界/跳躍」というダブルミーニングは消えているけど)。