研究日誌

哲学と哲学史を研究している人の記録

尾高朝雄の絶筆

突然の死によって未完成のままになった尾高朝雄の原稿「現象学派の法哲学」の冒頭には、以下のような目次が付されていた。

  1. 哲学としての現象学
  2. 方法論としての現象学
  3. 現象学の法哲学への応用
  4. 現象学的経験主義
  5. 実定法秩序の意味構造*1

実際に書かれたのは1だけで、残りの部分がどういうふうに構想されていたのかは正確にはわからない。とはいえいくらかの根拠をともなった推測をすることはできて、第4節はおそらく1948年の論文「法哲学における形而上学と経験主義」と同じ趣旨の内容になる予定だったのではないかと思う。なお、この論文は以下のリンク先から入手でき、最近刊行された尾高朝雄『ノモス主権への法哲学』(書肆心水、2019年)にも収められている。

 

そしてなによりも注目したいのは第5節で、ここでは戦前の『実定法秩序論』(1942年)の「はしがき」の以下の部分に対応するようなことが論じられたのではないかと推測することができる。

実定法現象の複合性を論理のメスによって木津つけることなしに、これをそっくりそのまま科学の世界に移して見るためには、いわゆる方法論的な成心を去って、まず学徒自ら実定法現象の中に沈潜していくに如くはない。私は、ここの実定法解釈学についてはきわめて乏しい素養をしか持たぬけれども、本書の想を練るに当り、少くとも大局的に私の採ろうとした態度は、それであった。これを一つの「方法」であるというならば、それは、対象自体の中に身を置いて見る綜合認識の方法であり、「事物そのものに向って」(an die Sachen selbst)進む現象学の方法であるということが出来るであろう*2

『実定法秩序論』で尾高が現象学について語るのはこの箇所だけだ。つまり、尾高は自分の議論が現象学的な方法にもとづくものであると明言するものの、それがいったいどのような方法なのかを同書でははっきりさせていない。上の引用の少し前で述べられるように「本書には、いわゆる「方法論」と名づけられるような部門がない」のである*3。尾高はこのとき積み残した仕事にあらためて取り組もうとしていたのかもしれない。

ちなみに『実定法秩序論』がどのような点で現象学的な著作であるのかは、同書をそれに先立つ尾高の著作を踏まえて読み解けばかなりの程度あきらかにすることができる。以下の論文の第3節を参照。

この論文を書いたときには上の目次に十分な注意が行ってなくてそれに言及することができなかったのが惜しまれる。

 

*1:尾高朝雄、「現象学派の法哲学」、尾高ほか編、『法哲学講座 第5巻(上)』,有斐閣、1960 年、193ページ。

*2:尾高朝雄『実定法秩序論』、書肆心水、2019年、13ページ。

*3:尾高朝雄『実定法秩序論』、13ページ