研究日誌

哲学と哲学史を研究している人の記録

フッサールの倫理学・価値論へのハイデガーの不満

前回の続き。ハイデガーはフッサールが『改造』のために準備した論文について、かなり辛辣な評価をしていたのだった。1922年11月22日付のレーヴィット宛書簡をもう一度引用しよう。

お年寄り〔=フッサール〕は日本のある雑誌に載せる論文を何編か書いています。リッカートが夏にそれを取り決めました。表題は「刷新」! お年寄りが言うには、まったく「精神科学的で社会倫理学的」だそうです。ドイツでもそれを年報で公表したがっています。想像力をどんなに自由に働かせてもあなたには思いつけないようなすさまじい代物です。最悪の事態を避けるために、そういったものはドイツでは印刷できないだろう——あまりにも初歩的だから、と夫人に言いました*1

ハイデガーがこの時期すでにフッサールに対して批判的だったということは比較的よく知られている。そのため、この引用はさほど驚きを呼ばないかもしれない(ハイデガーの口の悪さに驚く人はいるのかもしれないけど)。しかし、この書簡はひとつ興味深いことを示唆している。それは、ハイデガーがフッサールの倫理学についてもいくらか知っており、そのうえでそれをよく思っていなかったということだ。

私の知る限り、ハイデガーがフッサールの倫理学(あるいは価値論)への不満を表明したテクストが少なくともあとふたつある。ひとつは1920年1月27日付リッカート宛書簡だ。

フッサールは目下のところ、もっぱら、一般的な学問論・価値論・実践論についての厳密に形式存在論的な考察に向っています。いまのところ、そしておそらくずっと、私はそこに一緒に行きません*2

ここでは「倫理学」という言葉は出てこないが、ハイデガーが「実践論(Praktik)」と呼んでいるものがこの時期のフッサールの倫理学の主要部分だといって差し支えない。

もうひとつは1923年7月14日付のヤスパース宛書簡で、ここでは、レーヴィット宛書簡と同様のハイデガーの口の悪さが見事に発揮されている。

「フッサールは、人々が自分に付いてこないのを予感し始めています——もちろんフッサールは、自分に付いてくることがあまりにも困難なのだ、と思っているのです——だってむろんのこと、「倫理的なものの数学」(これがあきれたことに最新の成果なのです)なぞ、何人も理解するはずがないじゃありませんか——たとえ、フッサールが私よりもさきに進んでいるとしても、です*3

ちなみにここで引用した箇所の前後で、ハイデガーはフッサールについてもっと毒々しいことを述べている。

三つの書簡を時系列に並べると、リッカート宛(1920年)、レーヴィット宛(1922年)、ヤスパース宛(1923年)という感じになる。リッカート宛書簡での控えめな語り口とそれ以外の書簡での辛辣さという違いは、1920年から1922年くらいまでのあいだにハイデガーのフッサールへの不満がより強くなったことを反映しているのかもしれない。あるいはハイデガーは1920年当時からフッサールに強い不満を持っていて、書き振りの違いは、単に書簡の名宛人の違いを反映しているだけかもしれない(元指導教員のリッカートよりも、自分を慕っている若い学生であったレーヴィットや友人であり理解者でもあったヤスパースのほうが、ハイデガーにとって遠慮なくものを言える相手だったことは想像に難くない)。それはともかく、フッサールの倫理学・価値論のどこがハイデガーにとって気に食わなかったのかということは、少なくともちょっとした研究テーマにはなるだろう。やりかたによっては、この切り口からフッサールとハイデガーの難しい関係に新しい光を当てることができるかもしれない。

 

今回引用したような発言を目にすると、私たちは「ハイデガーはひどいやつだ」という感想を持ってしまったりもする。しかし、少なくとも上の三つについては、そういう評価をしないほうがいいかもしれない。これらはすべて私信だし、1920年代前半当時のハイデガーはまだまだ不安定でフッサールに気を遣わないといけない立場にあったはずだからだ。先生あるいは上司に関する愚痴を漏らすことくらい、誰にだってあっていいはずだ。

*1:『ハイデガー=レーヴィット往復書簡 1919–1973』、後藤嘉也・小松恵一訳、法政大学出版局、2019年、104–105ページ。

*2:Martin Heidegger/Heinrich Rickert, Briefe 1912–1933, Vittorio Klostermann, 2002, p. 48.

*3:『ハイデッガー=ヤスパース往復書簡 1919–1973』、W.ビーメル・H.ザーナー編、渡辺二郎訳、名古屋大学出版会、1994年、48–49ページ。