研究日誌

哲学と哲学史を研究している人の記録

現代哲学の研究に哲学史は必要なのか(その4):論証のかたちを可能なかぎり単純にし、反論の道を探る

そろそろ批判的なことを書きたいのだけど、反応を見ているとそもそもの話が理解されていないので補足を続ける。なるべく単純でわかりやすくすることを心がけた。また、この記事から読み始めることもできるようにしたつもりだ。短くしようとしたのだが、あるていど丁寧な説明を目指した結果、短いとはいえないであろう分量になってしまった。哲学についてあるていど専門的な訓練を受けた人にとっては、最後の「まとめと簡単なコメント」だけ読めば十分な話かもしれない。

原論文の情報はこちら。

今回の記事では、この論文の文言を直接引用せずに同論文の核心となる部分を取り出すことにした。とはいえ以下は私が理解したSauer論文の解説でしかないので、より正確なことを知りたい人は原論文にもあたってほしい(オープンアクセスなので無料で読める)。そのときには、私の他の記事も手がかりになるだろう。

可能なかぎり単純にした議論のかたち

私の理解が間違っていないならば、著者Sauerが提出した議論を整理したうえで可能なかぎり単純化すると、次のようなかたちの論証になる(読みやすさのための引用環境に入れてあるが、以下は植村による文章であることに注意してほしい)*1

前提(1)哲学の問題にできるかぎりまともな根拠にもとづいて答えたい人は誰でも、哲学のどんな問題についても、現時点でもっとも信頼のおける文献を参考にして哲学をする方がいい。

 

前提(2)ある特定の哲学の問題については、現時点でもっとも信頼のおける文献は、最近の著者が書いたものである。

 

結論 したがって、哲学の問題にできるかぎりまともな根拠にもとづいて答えたい人は誰でも、(2)で取り上げられた特定の哲学の問題について、最近の著者が書いた文献を参考にして哲学をする方がいい。

この論証に反対するための選択肢

上の論証は、前提(1)と前提(2)を正しい(真である)ものとして認めるならば、結論も正しいものとして認めなければならないものである。そのため、この論証に反対するためには、前提(1)と前提(2)の少なくともどちらかが正しくないことを示さなければならない。そのための選択肢はふたつある。つまり、前提(1)が正しくないことを示すか、前提(2)が正しくないことを示すかだ。

ふたつの選択肢を順番に検討してみよう*2

第一の選択肢を選ぶことはかなり難しい

第一の選択肢はかなり厳しい道である。なぜなら、前提(1)

前提(1)哲学の問題にできるかぎりまともな根拠にもとづいて答えたい人は誰でも、哲学のどんな問題についても、現時点でもっとも信頼のおける文献を参考にして哲学をする方がいい。

は、ほとんど誰でも認めるはずのことだからだ(この時点で合点がいった人は、この節の残りの部分を飛ばしてもらってもかまわない)。

もし仮にあなたが「自分は哲学の問題にできるかぎりまともな根拠にもとづいて答えたいわけじゃない」という考えだったとしても、そのことをもって前提(1)は正しくないと主張することはできない。この点をわかりやすくするため、いったん別の例を出そう。「辛いものを食べずに暮らしたい人は誰でも、不用意にカレー屋に入ってカレーを注文することは控えた方がいい」という主張について考えてみてほしい。もしあなたが私と同じように辛いもの好きで「辛いものを食べずに暮らしたい」という願望をまったく持っていなかったとしても、この主張には同意するはずだ。これとまったく同様に、「哲学の問題にできるかぎりまともな根拠にもとづいて答えたい」という願望をまったくもっていない人も、前提(1)の内容を正しいものとして認めることができる。そして、そのようにしないことはとても難しい。

前提(1)に出てくる「(できるかぎり)まともな根拠」とは何かがはっきりしないことを指摘しても、第一の選択肢によい展望は開けてこない。ここでの「まともな根拠」とは何かについては、たしかに複数の対立する意見があるかもしれない。しかし、そうした意見のどれを認めたとしても、そのことによって前提(1)が正しくなくなるということは、ありそうにない。この見通しにもしあなたが反対したいならば、「(できるかぎり)まともな根拠」とは何かを説明したうえで、「その説明にもとづくと前提(1)が正しくなくなる」ということを実際に示してみてほしい。うまい考えは、たぶん何も浮かんでこないはずだ。これと似た理由から、前提(1)に出てくる「現時点でもっとも信頼のおける文献」や「哲学する」とは何かがはっきりしないことを指摘しても、第一の選択肢に対して明るい展望が開けてくるわけではない*3

第二の選択肢も厳しい道だ

第二の選択肢は、前提(2)

前提(2) ある特定の哲学の問題については、現時点でもっとも信頼のおける文献は、最近の著者が書いたものである。

が正しくないことを示すというものである。このことに成功するためには、次の主張が正しいことを説得的に論じなければならない。

  • 哲学のどんな問題についても、現時点でもっとも信頼のおける文献は、最近の著者が書いたものではない。

これは茨の道である。上の主張に対しては、「この問題については、やっぱり最近の著者が書いた文献が現時点でもっとも信頼のおける文献なんじゃないですか?」というタイプの反論が、きっとたくさん出てくるだろう。その反論のうち少なくともひとつが的確だとしたら、その時点で、上の主張を守ることはできなくなってしまう。なぜなら、上の主張は哲学の「どんな問題」にも成り立つこととされているからだ。

前提(2)の擁護者から寄せられる反論には、どのような具体例があるだろうか。Sauerならば、「哲学の歴史を通じて(おおまかに)同じままだった問題については、最近の著者が書いた文献が現時点でもっとも信頼のおける文献だ」と述べるだろう*4。あるいは私の書いた「その2」の記事のように、「心身問題については、最近の著者が書いたものが現時点でもっとも信頼のおける文献だ」と反論することもできるだろう。第二の選択肢を選ぶということは、「この手の反論としてどんなものが来たとしても、それを退けることを試み、それがうまくいかなかったらこの選択肢を(いったん)諦めるという姿勢」をとることだ。これは簡単ではない*5

まとめと簡単なコメント

まとめよう。もしSauerの議論を以下のようなかたちで単純化していいならば、この単純な論証は強力である。

前提(1)哲学の問題にできるかぎりまともな根拠にもとづいて答えたい人は誰でも、哲学のどんな問題についても、現時点でもっとも信頼のおける文献を参考にして哲学をする方がいい。

 

前提(2)ある特定の哲学の問題については、現時点でもっとも信頼のおける文献は、最近の著者が書いたものである。

 

結論 したがって、哲学の問題にできるかぎりまともな根拠にもとづいて答えたい人は誰でも、(2)で取り上げられた特定の哲学の問題について、最近の著者が書いた文献を参考にして哲学をする方がいい。

この論証が強力なのは、それに反対するためのコストがかなり高いのに対して、それに賛成するためのコストはかなり低いからだ。すでに論じたことの確認にもなるので、この点を説明しておこう。前提(1)は、ほとんど誰でも認めるものである。そのため、前提(1)を拒否するという選択肢を選ぶのは、議論として筋が悪すぎる。したがって、この論証に反対するための選択肢は実質的にはひとつしか残されていない。前提(2)を拒否するというのがそれだ。しかし、前提(2)を拒否するという企ては、「いや、少なくともこの問題については最近の著者が書いた文献を参考にして哲学をする方がいい」ということが発覚したその瞬間に挫折する。言い方を変えれば、Sauerに味方して上の論証を擁護するためには、「少なくともこの問題については最近の著者が書いた文献を参考にして哲学をする方がいい」という哲学の問題をひとつでも挙げられればそれで十分なのである。

最後に簡単なコメントを。原則として、論証の強力さとその結論の過激さのあいだには、トレードオフの関係がある*6。つまり、「論証が強力であればあるほど、その論証の結論はあまり過激ではなくなる」し、「結論が過激であればあるほど、それを導く論証は強力ではなくなる(つまり論証にツッコミどころが増える)」というのが世の道理だ(もちろん例外もあるだろうが、それは例外でしかない)。何が言いたいのかというと、Sauerの論証を今回の記事のように理解するならば、その結論はそれほど過激なものではないということだ。哲学史について何か否定的なことが述べられると心が動かされてしまうのはよくわかる(私もそうだ)。そういう人は、Sauerの主張から出てくる批判が本当に自分に刺さっているのかどうかを、この記事を手がかりにしてよく確認してほしい。実はその批判が刺さっていなかったという人も多いのではないだろうか。

文献案内

今回の記事で私は、自分が哲学研究者(そして哲学教師)としていくらか身につけているはずのスキルをかなり動員した。ほとんどの人にとって、こうしたスキルは一朝一夕で身に付くようなものではない(もちろん私にとってもそうだった)。また、こうしたスキルを一人で身につけるのは簡単ではない(もちろん私も院生時代の先輩や友人にかなり助けられた*7)。

そんななかで、戸田山和久『思考の教室:じょうずに考えるレッスン』(NHK出版、2020年)は、独習用の参考書としておすすめできる。

副題にあるように、この本は「じょうずに考える」ことができるようになるためのものだ。しかしこの本は、哲学の入門書としても使える。なぜなら、哲学もまた「じょうずに考える」ことを目指した営みのひとつであり、著者の戸田山は哲学者としてこの営みの知見を読者に伝えようとしているからだ。そういうわけで、この本はある種のハウツー本に偽装された哲学の入門書であり宣伝の書だといってもいいかもしれない(念の為に強調しておくと、本書はもちろんハウツー本としても優れているので、哲学にさほど興味ないよという人にもおすすめできる)。

では、この本はどうして独習用の本として優れているのだろうか。それは、練習問題がついていて、しかもそれらに解答例と解説がついているからだ。本文の丁寧な説明を読み、練習問題を実際に手を動かして解いたあとに解答例と解説を確認すれば、「じょうずに考える」ためのスキルがそのぶんだけ向上するはずだ。私は本書を卒論ゼミの副読本に指定している。

また注目すべきは、戸田山にとって、哲学は経験科学と連続的である(あるいは、そうあるべきである)という点だ。こうした哲学観は、Sauerが論文中で念頭に置いている現代の哲学と大筋で同じであるか、少なくと緩やかに同じ方向性にあるものだといっていい。したがって本書は、「自然主義」と呼ばれるこうした方向性の哲学が私たちにどのような貢献をしてくれるかを具体的に体験する機会も与えてくれるだろう。

関連記事

 

*1:思いっきり整理したあとに単純化しているため、以下に書いてある論証は、直接対応するものが原論文のなかにないようなものになってしまっているかもしれない。もし私の再構成がSauerから離れすぎだというならば、以下の論証は、Sauerに着想を得てSauerと同様の結論に至るものではあるはずだが、私自身のものとみなしてもらってもかまわない。単純化しているためいろいろ補足が必要になるとはいえ、この論証はかなり強力なのではないかというのが私の現時点での考えである。考えが変わったらまたそのことを明らかにするつもりだ。

*2:ふたつの前提の両方が正しくないことを示すという第三の選択肢もあるが、これは別立てで扱う必要がない。なぜなら、第三の選択肢を選ぶことは、第一の選択肢と第二の選択肢の両方を選ぶことに等しいからだ。

*3:このことに納得できないなら、「現時点でもっとも信頼のおける文献」とは何かや「哲学する」とは何かを説明した上で、その説明にもとづくと前提(1)が正しくなくなるということを示してみてほしい。たぶんうまい考えは浮かんでこないはずだ。もちろん、たとえば「哲学する」を「信頼のおけない文献にもとづいて考える」と定義すれば前提(1)は正しくないということになるが、これは「哲学する」とは何かについての説明としてまともなものではないだろう。また、こうした定義を採用すると、前提(1)が正しくないことは、トリヴィアル(自明で取るに足らない)事柄になってしまう。ここであなたに求められているのは、前提(1)に出てくる表現を、この前提をトリヴィアルではないしかたで正しくないものにすることを目指して明確化することなのである。

*4:なお、私はこの主張には疑わしいところがあると思っている。詳しくはまたの機会に。

*5:念の為に書いておけば、前提(2)に出てくる「哲学」や「現時点でもっとも信頼のおける文献」や「最近の著者」とは何かがはっきりしないことを指摘しても、第二の選択肢に対して明るい展望が開けてくるわけではない。このことに納得できないなら、「哲学」や「現時点でもっとも信頼のおける文献」や「最近の著者」のいずれか(あるいはふたつ、あるいは全部)に自分なりの説明を与えた上で、その説明にもとづくと前提(2)が正しくなくなるということを示してみてほしい。うまい考えはたぶん何も浮かんでこないはずだ。

*6:ここでの「過激さ」とは、結論の見かけ上の過激さではなく、実質的な過激さのことだ。さほど過激ではない主張も、過激に表現することはいくらでもできる。「歴史の終わり(The End of History)」というタイトルからも察せられるように、Sauerの論文には見かけ上の過激さを狙って書かれているようなところがあるように思われる。こうした書き方を私は一概に否定するわけではないが、このケースに関しては、Sauerは過激に見える書き方をなるべく避けたほうがよかったのではないか、というのが現時点での私の所見だ。なぜなら、見かけ上の過激さによってSauerの論文は過剰反応を引き起こしているように思われるからだ。

*7:ここに「先生」が出てこないところに世代を感じますね! この世代が属する時代を「大放牧時代」と呼ぶことにいま決めた。