研究日誌

哲学と哲学史を研究している人の記録

ノエマ論争についての論文が久しぶりに出た。

フッサールのノエマ概念をめぐる論争は最近はだいぶ下火といっていい感じになっていたんだけど、つい最近この話題に関する新しい論文(Ilpo Hirvonen, ”Reconciling the Noema Debate”)が出た。

以下はアブストラクトの翻訳。

エトムント・フッサールの超越論的現象学における鍵概念のひとつは、ノエマである。フッサールがこの概念によって示したのは、経験において志向されたもののうち、現象学的還元後の超越論的な探求領域のなかに残るような側面である。このような見かけ上の単純さにもかかわわらず、ノエマに関するフッサールの議論には曖昧なところがあり、その曖昧さは、二次文献における広範囲にわたる論争を引き起こしてきたほどであった。この論争の要点は、ノエマと対象の関係についての問いにかかわる。その問いとは、ノエマは内容であり対象から存在論的に区別されるのか、それとも、ノエマは対象そのものであり、ただその対象が哲学的な反省において別様に捉えられているにすぎないのかというものである。本論文で私は、この論争における二つの対立する立場(いわゆる西海岸解釈と東海岸解釈)を調停することを目指した解釈を提案する。調停へのきっかけは、両方の解釈が正しくみえつつもそれぞれの欠点を抱えているという事実からやってくる。私は、フッサールが現象学的探求のふたつの領域にあいだにもうけた区別、つまり、中立化された純粋現象学と中立化されていない理性の現象学の区別を適用することによって調停を提案する。私は、これらの区別を明らかにしたあとに、共同関係にある両方の解釈は、現象学的探究の二つの領域それぞれにおけるノエマの側面のために取っておくならば、共に部分的に正しいものでありうるということを提案する。最後に、私はこの提案がフッサールのノエマと心の哲学における内在論・外在論論争をめぐる近年の議論における問題を解決するためにどう役立つのかを示す。

賛成できるかどうかはわからないけど結構面白そうだ。『イデーンI』の第4篇の理性の現象学って現象学的還元(第2篇)や中立化(第3篇)とあまり相性良くないんじゃないかという疑問はフッサールをある程度読むと多くの人に浮かぶものなので、このあたりをどう論じているのかはきちんと検討したい。