『フッサール 志向性の哲学』(青土社、2023年)を、著者の富山豊さんからお送りいただいた。待望の単著といっていいだろう。志向性に関するフッサールの見解について私が論じる次の機会——万事が順調に進めば今年の5月後半には最初の機会がやってくる——に本書を詳しく検討しなければならないことははっきりしているので、まずはざっと一周読んだ。読む前から分かっていたことではあったが、期待させるだけ期待させておいて……ということにはまったくならなかった。待ち望んだ甲斐があった。以下に簡単な感想を記しておく。同書のページ数への参照はアラビア数字だけで行う。
本書はフッサールに関する入門書だが、私の知るかぎり、他のどの類書とも異なっている。ある哲学者についての入門書というものは、その哲学者の思想の全体像を示すのを目的にするのが通例である。それに対して本書は、フッサール現象学の全体像を包括的に示すわけではない。むしろ本書は、フッサール現象学のもっとも中心的な概念のひとつである志向性について、その他の入門書や概説書が場合によっては一章(あるいは一節)ですませてしまいがちな基礎の基礎をじっくりと論じることを選んでいる。著者自身が序章で述べているように、本書は「フッサールにたどりつくまで」をサポートすることを目的とするのである(23)。
ではフッサール現象学の「基礎の基礎」とはなんだろうか。一言でいってしませば、それは「意識は志向性によって世界へと開かれている」というアイディアだ。このアイディアがより正確にはどのようなものであり、それにどのような根拠が与えられるのかを、富山はフッサールの初期の著作『論理学研究』に焦点を定めて、とにかく丁寧に論じている。丁寧に手ほどきをしてくれる哲学入門書はいまや珍しくないが、それでもこの丁寧さは特筆に値する。これ以上丁寧に書くことは至難の業だといっていいだろう。どれくらい丁寧かというと、哲学書の翻訳では(原語の)複数形を表現するために「諸○○」という言い方がされるという注意書きが記されているほどだ(194)*1。
フッサールの志向性概念に関する本書の議論の特徴は、なんといっても、思考という経験のあり方に重点を置いて進められている点にあるだろう。ここでの「思考」はかなり広いいみで特徴づけられており、何かを思い浮かべたり推測したりすることだけでなく、願望や喜怒哀楽のような感情や知覚も思考に含まれる(28–29)。とはいえ、著者が論じる思考の典型は判断だ。(典型的には)真偽を問える文によって表される何かについて、それが成り立っている(あるいは真である)とみなすとき、私たちはどのような経験を持っているのか——本書は、この問いに対するフッサールの回答を、フレーゲとダメットのフレーゲ解釈を大々的に参照しながら再構成する。
フッサールについてある程度のことを知っている人ならば、判断に論点を絞ることの眼目はよくわかるだろう。フッサールは志向性を論じるにあたって、それが「意味を介して」対象に向かう意識の特徴であると述べることがよくある。この発想の内実と意義をはっきりさせるためには、『論理学研究』においてフッサールが意味を判断(あるいは「言表(Aussage)」)とどうやって関連づけたかを突き止めなければならない。こうした事情を背景にするとよくわかるのだが、本書の戦略はフッサール研究における定石をきちんと踏まえている。
その一方で、本書は研究史を踏まえても特筆すべきフッサール解釈を提出しているか、少なくともそうした解釈を提出しつつある。フッサールをフレーゲと並べて読むというアプローチそのものは特に新しいものではない。このアプローチには、フェレスダールの論文「フッサールのノエマ概念」(1968年)*2にまで遡ることできる半世紀以上の歴史がある。しかし本書の立場は、フェレスダール論文に始まるフッサール解釈の伝統(いわゆる「西海岸学派」)とは明確に異なる。フェレスダールのようにフッサールが『イデーンI』で導入したノエマをフレーゲの意義(Sinn)に相当するものとみなすのではなく、富山は、『論理学研究』から「対象の探索の手続きとしての意味」という発想を取り出し、それをダメットが再構成したフレーゲの立場に結びつけるのである。違いはこれにとどまらない(かもしれない)。終章で展望として示されるように、本書の解釈の延長線上にあるノエマ解釈は、ノエマを対象から区別された意味とみなす解釈——富山は明言しないが、これはフェレスダールのフレーゲ的なノエマ解釈の要点である——とは真っ向から対立するのである(260)。本書の趣旨からすると仕方のないことではあるが、この論点を含む終章は全般的に話がやや駆け足気味になってしまっている。終章で示されたフッサール解釈の大枠に沿って超越論的現象学のさらなる内実に踏み込むことが、本書に続く著者の仕事ということになるのだろう。多いに期待して待ちたい。
最後に、本書に関して覚えた疑問を簡単に記しておきたい。著者はフッサールの志向性理論を、実質的にはほぼ判断に話を限って再構成している。それに比べると、著者が「思考」のうちに数え入れた知覚についての本書の議論は、やや限定的だといわざるをえない。もちろん本書でも、フッサール現象学において知覚が果たす重要な役割は論じられている。そのことは、知覚をはじめとした直観による判断の確証ないし充実に関する本書の議論をみればあきらかだろう(177–184)*3。だが、知覚もまた志向性を持つというフッサールの発想を、本書は正面から論じているわけではない。そして、本書の基本的な立場は、知覚の志向性に関するフッサールの見解を論じるにあたって、一筋縄では行かない問題に直面するはずである。フッサールは知覚の志向性についても、「意味を介して対象にかかわる」という図式を用いて論じることが多い(たとえば、「知覚意味(Wahrnehmungssinn)」に関する『イデーンI』の議論を参照)。この文脈での意味を、「意味とは対象を探索する手続きである」という発想にしたがって理解することは果たしてできるのだろうか。何かを知覚するとき、私たちはその何かの探索をひとまず終えてしまっているはずである。たとえば、自分のスマートフォンの探索は、探しているそれが棚の上にあるのを私が見たときにひとまず終わるはずである。知覚の志向性、たとえば私の知覚経験がスマートフォンについてのものであることを富山が示した路線のもとで論じるためには、相応の工夫が必要になるはずである。このあたりの問題を著者はすでに把握しているはずなので、やがて出てくるであろう仕事を楽しみに待ちたい。
最後に懸念のようなものを表明してしまったが、これは本書の価値を低く見積もるためのものではない。『フッサール 志向性の哲学』は、フッサール入門のための最良の一冊であると同時に、志向性について論じるフッサール研究者ひいては現象学研究者が避けて通ることができない著作として今後頻繁に参照されることになるはずだ。
*1:本書には注がないため、こうした注意書きや但し書きが本文中の随所で(ときに括弧のなかに入れられて)登場する。著者というよりは出版社の意向によるところが大きいと推察されるこうした形式そのものには賛否の両方があるはずだ。しかし本書に関していえば、このやり方はおおむねうまくいっているように思われる。いちいち注を確認する、あるいは、まずは注をざっと読んで小ネタがちりばめられていないか探すという本の読み方をする人だけが世の中を作り上げているわけではない。読者がつまずきがちな箇所で先回りのフォローをするにしても、それが注に書かれていると読まれなかったりすることも(私の経験の範囲内ではけっこう)ある。ならば、注を排するというのはひとつのいいやり方だろう。そして本書については、注意書きや但し書きが本文に挿入されていることで可読性が下がっているという印象は受けなかった。ちなみに私は注の愛好家なので、注なしという形式を採用するためにはいくつかの心理的障壁を乗り越える必要が出てくると思う。
*2:https://www.jstor.org/stable/2024451
*3:本書の索引に「直観」と「充実」がなかったのはいささか残念である。