研究日誌

哲学と哲学史を研究している人の記録

フッサールの初期超越論的観念論関連草稿(1)

本格的に仕事を再開。年末年始で中断していたフッサールの未公刊草稿B I 4(1908年ないし1908年の執筆)のトランスクリプトを読む作業の続き。Jean-François LavigneのHusserl et la naissance de la phénoménolgie (1900-1913) [2004]で引かれている箇所を発表や論文でかなり重要な証拠として使ったので、それが出てくる文脈を押さえるために全部読むことにしている。(といっても、この草稿群に含まれるテクストのすべてが内容上連続しているわけではない。)超越論的観念論の成立期にフッサールが何を気にしていたかがよく分かる内容。1913年に公刊された『イデーンI』での話題に直結するような問題も散見される一方で、1920年代以降のフッサールに帰せられることが多い発想が(少なくとも萌芽的なしかたで)すでにあらわれている。この点を踏まえると、フッサールの思想の展開は、「方法論的な考察の深まりによる新たな事象の発見」というよりは「だいぶ前からあった発想を何とか説得的に提示するための(方法論的な考察を中心とした)試行錯誤の過程」に近いのではないかという気がますます強くなってくる。しかしこれを実証的に示すのはたいへんな仕事だな。

コンラート=マルチウスの感覚論

完成しつつある論文のための作業の一環としてHedwig Conrad-Martius, Zur Ontologie und Erscheinungslehre der realen Außenwelt (1916)の一部を読む。「われわれの意識から独立して存在する世界(の一部)がそのようなものとして与えられる感覚的経験はどのような記述的特徴を持つのか」という、実在論現象学がその名の通りに実在論的かつ現象学的であるためには避けることが難しいであろう問題に正面から取り組んだ重要な著作で、インガルデンにも(たぶんかなり強い)影響を与えている。拾い読みするといろいろ面白いことが書いてあるんだけど、とにかく読みにくいので毎回どこかで挫折してしまっている。とはいえ、感覚的経験の特異性を強調するときに「自分にとって自由にならないものとしての自分の身体」を持ち出している一節は、そこだけ取り出して検討することに値する論点だと思う。

最近のブレンターノ研究

年始に一度完全にオフにしてしまった頭を仕事仕様に戻すにはさっと読めそうな未消化文献を片付けて達成感を得るのが手っ取り早いだろう、ということで、Pietro Tomasi, “The Unpublished ‘History of Philosophy’ (1866–1867) by Franz Brentano” [2007]を読んだ。1997年にグラーツのドミニコ会修道院で新たに発見されたブレンターノの哲学史に関する草稿(約950ページ!)が持つ意義に関する、短めの論文。問題の草稿の内容紹介と関連して二つのトピックが取り上げられている。一つは、ブレンターノの死後に著作として出版されたいくつかの著作が持つ編集上の問題点(Geschichte der griechischen Philosophieの編集がいかにまずいか)、もう一つは、生前の公刊著作だけでなく未公刊草稿に依拠したブレンターノ研究の進むべき方法性(ブレンターノの哲学的見解の源泉がアリストテレスとトマスにあることを踏まえよう)。

 

ブレンターノを理解するためにはアリストテレスが大事ということは、彼のキャリアを思い出せばまあ当たり前と言えるかもしれないし、最近のブレンターノ研究書はその辺をかなり丁寧に掘り起こしているという印象がある(たとえばMauro Antonelli, Seiendes, Bewusstsein, Intentionalität im Frühwerk von Franz Brentano [2001])。トマスについても、19世紀のネオ・トミズムとブレンターノの関係ついても先行研究(Dieter Münch, “Franz Brentano und die Katholische Aristoteles-Rezeption im 19. Jahrhundert” [2004])がすでにある(三・四年前に読んだはずなんだけど内容を全く思い出せない…)。その限りでの目新しさはこの論文にはない(ばかりか、やっぱりアリストテレスについて詳しく知らないとブレンターノの本当のおもしろさとすごさは分からないだろうなと思ってあらためて暗い気持ちになった)けど、最近のブレンターノ研究が共有している見解が実際にどのような文献上の証拠に動機づけられているのか具体的に分かる点が面白い。死後に出た著作の問題点の指摘についても同様。それにしても、ずっと前からそのうち出ると言われ続けているブレンターノの初期の形而上学講義(1867年)はいつ出るんだろうか。

 

フレデリック・C・バイザー『理性の運命:カントからフィヒテまでのドイツ哲学』

年末から半分趣味で読み始めたFrederick C. Beiser, The Fate of Reason: German Philosophy from Kant to Fichteが面白い。理性と信仰という古典的な問題が「汎神論論争」というかたちで18世紀後半のドイツ(語圏)の哲学界にどのようにあらわれたのかを、この論争に登場する主要な哲学者それぞれの主張とその背景を確認しつつ示していくという(たぶん「手堅い」といえる)構成なんだけど、その際の手つきが見事すぎる。特筆すべきは、各哲学者の議論を再構成するときの匙加減の絶妙さだろう。「ある哲学者の主張だけでなくそれを支える議論も明快に再構成して示すけど、(それはそれで重要な)議論の細部は、全体的な話の流れをわかりにくくさせるようなら触れない」という方針を貫くのはそう簡単なことではない。カントを除けばこの時代の哲学についての知識が非常に乏しい私でもこの本を挫折しないで楽しく読めるのは、バイザーがこの方針を(少なくともこれまでに読んだら第五章の途中までは)きちんと守っているからだと思う。もちろんこうしたやり方にはデメリットもあって、再構成された議論にはちょっと踏み込んで考えてみると変な感じがする箇所がたまにある。(たとえば、バイザーの再構成を見る限りでは、ヤコービメンデルスゾーンは(少なくとも現代的な観点からは)かなり謎の前提を暗黙のうちに使っているように見える。)でもまあそういった点について気になる人は各哲学者の原著かより詳しい研究書にあたるべきだろうから、このデメリットを理由にバイザーを責めるのはちょっと筋違いかな。全部読み終わったらもう少し感想を書きたい。