研究日誌

哲学と哲学史を研究している人の記録

戦前にはほぼ無視されたフッサールの「『改造』論文」

1923年から1924年にかけて、フッサールは日本の総合誌『改造』に3篇の論考を寄稿した。当時いろいろあって未刊行に終わった残り2篇とあわせて「『改造』論文」とも呼ばれるこの連続論文は、1989年に『フッサール全集』(Husserliana)第27巻として出版されるまで、世界中のほとんどの人にとって読むことが難しい文献だった。そもそも『改造』にアクセスすることが日本以外の国では簡単ではないだろう。それに加えて、第1論文「革新:その問題と方法」(1923年)こそ日独両言語で誌面に載ったものの、第2・第3論文は日本語訳だけの掲載だったのである。つまり、当時の日本の人々はフッサールの「『改造』論文」をいちはやく読むことができる例外的な立場にいたということでもある。

だが、どうやらこの論文は戦前の日本でほとんど何の反響も引き起こすことなくスルーされたようである。というのも、「『改造』論文」に言及した戦前日本の文献がほとんど見つからないからだ。

私の調査の及ぶ範囲では、「『改造』論文」への言及が確認できる戦前日本の文献はひとつしかない。三井甲之の「現代国民思想の趨向と学術革命」という講演録(1923年)がそれだ*1。だが、三井はこの講演のなかで「『改造』論文」に軽く触れるだけで、その内容を論じているわけではない。当該箇所を引用しよう。

雑誌の「改造」に大変大きな広告などしてアインシュタイン初めフッサール、リッケルトとか云う者の論文が沢山載せてあります。けれ共、私共は余り感心致しませぬ。*2

たったこれだけ。というわけで、フッサールの「『改造』論文」は戦前の日本ではほぼ無視されたといってもいいだろう。

この無視をどうやって評価すればいいのかという問題は難しい。『改造』に寄せられた外国の論者たちの記事が総じてどれくらいの反響を引き起こしていたのかがはっきりしないかぎり、フッサールの事例がよくある話だったのか例外的な出来事だったのかはわからない。とはいえ、フッサールの「『改造』論文」がほぼ無視されたのはなぜかということについて、私たちはいくつかの推測をすることができるし、そこには興味深い論点も含まれている——という話を、もうすぐ岡山で開催される「『改造』論文」100周年記念学会で八重樫徹さんと共同でします。

*1:三井甲之という人物を私は知らなかったのだが、ウィキペディアのエントリーによると、あの蓑田胸喜と一緒に原理日本社を立ち上げた歌人らしい。

*2:三井甲之「現代国民思想の趨向と学術革命」『国学院雑誌』第9巻第8号、大正12年、574頁、旧字をあらためた。ちなみにこの記事は国会図書館の個人送信サービスで読める。https://dl.ndl.go.jp/pid/3364991/1/3