研究日誌

哲学と哲学史を研究している人の記録

高橋里美の胆力(おまけその2)

『高橋里美全集』第7巻の末尾にまとめられた年譜によると、高橋がドイツ留学から日本に帰国したのは1928年2月のことらしい*1。ということは、ハイデガーがマールブルクからフッサールを訪ねてきた1927年10月12日前後に高橋がまだフライブルクにいたとしても、おかしくはない。つまり、高橋の帰国にあたってハイデガーが送別会を取り仕切ったという小野浩の(おそらく高橋本人から聞いたのであろう)話*2は、現時点の証拠に照らして事実だと推定できることと少なくとも矛盾しない。とはいえ、ハイデガーが幹事役をつとめたかどうかについては、たぶん慎重になったほうがいいだろう。このときハイデガーはほんの短い間しかフライブルクに滞在していないからだ。

ちなみに1927年の秋には、ローマン・インガルデンもフライブルクを訪問していた。インガルデンの回想によると、このとき「私はフッサール宅で催された哲学の集いを体験したが、その集いにはハイデッガー、ベルリーンのパウル・ホーフマン、フライブルクのカトリック哲学者ホーネッカーも参加した」らしい*3

これは単なる想像でしかないが、ひょっとしたらこの集まりが高橋の送別会を兼ねていたのかもしれない。もしそうだとしたら、高橋や務台はインガルデンとも顔を合わせていたということになる。だからどうしたという話かもしれないが、高橋とインガルデンのそれぞれについて論文を書いたことのある身としては、なんだか楽しくなる想像ではある。

*1:「高橋里美年譜」、『高橋里美全集 第7巻 小品・随想、その他』、福村出版、1973年、298ページ。

*2:小野浩「ハイデガー先生の思ひ出」、『城西人文研究』第9号、194–154頁。引用は192頁から。この随筆はこちらでダウンロードできる。

*3:インガルデン「書簡への注釈」、『フッサール書簡集1915–1938 フッサールからインガルデンへ』、桑野耕三・佐藤真理人訳、せりか書房、1982年、229–230ページ。