研究日誌

哲学と哲学史を研究している人の記録

高橋里美の胆力(その2)

前回の続き。上の記事で引用した文章で小野浩が「旧台北帝大のM教授」と呼んだ人物は、高橋里美と同時期にフライブルクに留学していた務台理作のことだろう。務台は、高橋がフッサールの面前で見せたもうひとつの大胆な振る舞いの目撃者でもある。「留学時代の高橋里美さん」と題された1964年のエッセイで、この出来事を務台は次のように描写している。

冬の学期の終わり頃であった、例の様にフッサール教授の宅で両人が現象学の話をきいているうちに、一つのことがきっかけで老教授を非常に興奮させ、顔色をかえ身をふるわせるようなことが起こった。その詳細は戦前第一書房から出た高橋さんの著書『フッサールの現象学』の附録に書かれてあるが、要するに教授が自分の現象学はdie Philosophie(ほんとうの哲学)といわれたのにたいし、高橋さんが正直に「いや自分はeine Philosophie(たくさんの中の一つの哲学)だと思う」と答えたことがそのきっかけであった*1

現象学こそが哲学であると考えていた(そしてそれを公言していた)フッサールに対してこれを言える高橋はすごい。

上の引用によれば高橋の『フッサールの現象学』(正しくは『フッセルの現象学』)の附録にもこの話が書かれているということだが、おそらくこれは務台の記憶違いだと思う。1931年の版をあたることができなかったので断言は避けたいが、『高橋里美全集』版の同書の附録(「フッセルのこと」)には、そうしたことは書かれていない。

ともあれ、フライブルクでの出来事を高橋も語っているということそのものについて、務台は勘違いをしたわけではない。1962年に発表された随想のなかで、高橋は事件をこう振り返っている。

フッセルは我々日本人留学生には実によくしてくれたし、私どももまた熱心に彼の講義を聴き、演習にも欠かさず参加した。彼は時々我々を自宅に招いて、講義の不足を補い、自由に質問も許してくれ、またお茶の会でも雑談というよりは現象学の話が主であった。ところで私が彼を怒らせたのも、そうした或る茶の会の席上でのことである。その時の彼は、日本から田辺元君が緑茶を送ってくれた、などといって、特に上機嫌であった。しかるに、何を思ったのか、彼は我々に向かって次のような質問を発したのである。自分はこれまで諸君に特別熱心に現象学を教え込んだつもりだから、諸君も定めしそれを理解したことと思うが、先ず高橋君、現象学を君はどう思う、と年長者の私が真先に名指された。私は即座にそれが正直な返答を要求するシーリアスな質問であることを感じて、次の如く答えざるをえなかった。私は、現象学の方法も哲学における一つの重要なる方法であるが、哲学の唯一の方法とは思わない、と。私のこの返答を彼は頗る意外に感じたものと見え、こんどは務台君に向かって、務台君、君はどう思うと問いかけて来た。務台君は、現象学に対して深い関心を持っている旨を答えたところ、彼は、そんな関心などという生やさしいことでは駄目だ、もっともっと真剣に身を入れて研究せねばならぬと、ますます不興になり、折角の茶の会も台なしになってしまった。それを台なしにした最大の原因は私の答えにあったに相違ない*2

高橋の随想のタイトルは「学者を怒らせた話」。この図太さには憧れる。

ちなみに高橋のフライブルク留学の成果であり、務台も上の引用で言及していた『フッセルの現象学』(初版1931年)は、フッサールに関する戦前の文献のなかでも出色だといっていい。今は下記の本にその全体が収められており、野家啓一による解説とあわせて読めばその先駆性がわかるだろう。

*1:務台理作「留学時代の高橋里美さん」、『思索と観察——若い人々のために——』、勁草書房、1968年、176ページ。

*2:高橋里美「学者を怒らせた話」、『高橋里美全集』第7巻、福村出版、1972年、219–220ページ。