研究日誌

哲学と哲学史を研究している人の記録

客観的であることと主観的であることを対比したくなる気持ちに水を差すウィギンズの所見

折りに触れて読み返したいし、いろんな人に読んで欲しいのでここに引用しておこう。

〔…〕客観性と非客観性との区別(こちらの区別は、公共的に認められ合理的に批評可能な議論の水準が存在することや、真理を目指す推論が存在することと関係があるように見える)が、人間中心的なものと非人間中心的なものとの区別(この区別は、人間的な関心や人間的な観点に向かう方向性にかかわる)と一致するはずだという考えは、見たところもっともらしくない。これらの区別に概念的な結びつきがないわけではないが、人間中心的であるような事柄は明らかに、より客観的であるか、より客観的でないか、あるいは(極端な場合は)単に主観的であるか、そのいずれでもありうるような外観を呈している。人間中心的/非人間中心的という区別、非客観的/客観的という区別、それから、主観的/非主観的という区別、この三つのそれぞれもっともらしい独立の説明が相互に一致していることを厳密に証明するような議論をわれわれが手にするまで、こうした外観は変わらないだろう*1

この箇所に付いている注でもウィギンズはいいことを言っている。

「この周辺にある他の全ての区別についても、同様の考察が加えられる必要がある。——中立的であることとコミットしていること、中立的であることとバイアスが掛かっていること、記述的と指令的、記述的と評価的、定量化できることとできないこと、絶対的と相対的、科学的と非科学的、本質的に争われないことと争われること、検証ないし反証が可能なこととどちらも不可能なこと、事実的と規範的……。通俗的に、あるいは社会学や経済学においては——さらには、より深く理解しているべき政治学においても——これらの区別はほぼ交換可能なものとして使用されている。しかし、これらの区別は互いに異なるものである。これらの対比はそれぞれ独自の原理をもっているのである。それをすべて説明することは、哲学だけでなく人生に対する貢献となるだろう*2

私もそのうちこの件に関連して人生へのささやかな貢献をしたい。

 

*1:デイヴィッド・ウィギンズ、「真理、発明、人生の意味」、『ニーズ・価値・真理——ウィギンズ倫理学論文集』勁草書房、2014年 、164–165頁。

*2:ウィギンズ、「真理、発明、人生の意味」、217頁注12。