研究日誌

哲学と哲学史を研究している人の記録

シュタインと似た考えを表明するフッサール

前回の続き。エディット・シュタインの見立てによれば、フッサールの観念論的な主張は論証によって示したり反駁したりできるようなものではありません。実はこれと似たようなことを、フッサールは『デカルト的省察』(1931年)の第41節で述べています。

この観念論は、「実在論」との弁証論的な戦いにおいて戦利品として得られるような、遊び半分の議論の産物などではない。それは、我〔エゴ〕である私にとって確かに考えられる存在者のすべての類型において、とりわけ、自然、文化、一般に世界といった(経験によって実際にあらかじめ与えられた)超越において、実際の作業のなかで遂行される、意味の解明なのである。このことはしかし同時に、構成する志向性そのものを体系的に露呈することを意味している。それゆえ、この観念論の正しさを証明するのは、現象学そのものなのである*1

引用してみてあまりしっくりこなかったので自分でも訳しておきます。

この観念論は、競技のように論証することで作り出されるものではなく、諸々の「実在論」との問答法的な争いの戦利品として手に入れられるようなものでもない。それは、私つまり自我にとっておよそ考えうるあらゆる存在者のタイプに関して、とりわけ、自然や文化つまり世界一般の(経験によって私に現に先立って与えられる)超越に関して、意味を解明する作業が実際に行われることなのである。あるいはそれと同じことだが、それは、構成する志向性それ自身を体系的に解明することである。したがって、こうした観念論の証明は、現象学それ自身なのである*2

「意味を解明する作業が実際に行われること」という箇所は意訳です(上の岩波文庫版からの引用の方が直訳に近いです)。さて、この引用の前半部分からはっきり読み取れるように、フッサールはここで自分の観念論を論証によって示される成果とみなしていません。その理由が続く箇所で述べられています。細かいことを解説する場ではないので要点だけ指摘しておきます。フッサールによれば、世界を意識の志向的相関者とみなす自分の観念論の証明は、志向性の体系的な解明が終結することによって達成されます。つまり、志向性を現象学的に分析することの一歩一歩が、観念論の証明の一部だというわけです。もしそうだとすれば、志向性の現象学的分析を離れて実在論との論争に明け暮れることは、フッサールの観念論の正しさを示すためには何の役にも立たないということになるでしょう。

このように、現象学的な観念論は論証によってどうこうできるものではないという点について、フッサールとシュタインはおよそ同じような見解をもっていたといってよさそうです。では、この見解の根拠についてもフッサールとシュタインは一致していたのでしょうか。このあたりについては意見が分かれそうです。

*1:フッサール『デカルト的省察』、浜渦辰二訳、岩波文庫、2001年、156ページ。原文の強調は省略した。

*2:Edmund Husserl, Cartesianische Meditationen und Pariser Vorträge, S. Strasser (ed.), Husserliana, vol. I, Martinus Nijhoff, 1950, p. 119. 原文の強調は省略した。