研究日誌

哲学と哲学史を研究している人の記録

現代哲学の研究に哲学史は必要なのか

大雑把に言えば、タイトルの問いに「必要ない」と答える論文が出た。

読んでみたら面白かったので、自分用のメモも兼ねて概略をまとめておいた。感想なども書きたいのだけど概要だけでだいぶ長くなったのでその辺はまたの機会にしたい。とはいえいくつかのことは注に書いておいた。

 

要注意事項

  • 以下では同論文を2022年9月現在の'Latest articles'版のページ番号だけで参照する*1
  • 以下に出てくる鉤括弧は、そのあとにページ番号が付されている場合には同論文からの引用である(翻訳は植村による)。それ以外の鉤括弧は読みやすさのために植村がつけたものだ。
  • この要約は、箇所によっては原文をかなりパラフレーズするかたちで作られている。別の言い方をすれば、この要約は原文の重要そうなところを摘んで翻訳したものではない*2
  • 後半の要約が短くなるのは、書いているうちにだんだん疲れてきたからという事情もあってのことだ。
  • 内容に関する大きな修正があった場合には、そのことを明記する予定である(字句の軽微な修正や趣旨を変えるものではない補足については、いちいち明記しない)。
  • 【2022年9月24日12時52分追記】この論文はオープンアクセスなので無料で読める。私のまとめは網羅的ではないし正確ではない部分もあるかもしれないので、興味のある人はぜし現物に当たってほしい(そしてこの記事の誤りや補足などをしてもらえると助かる)。
  • 【2022年9月25日9時29分追記】本文末尾に「関連記事」というセクションを作り、補足記事へのリンクを掲載した。補足記事のリンクを今後も追加する予定だが、煩雑さを避けるために、この箇所にはそれを明記しない。

 

目次

イントロダクション(pp. 2–3)

この箇所では本論文の主張が端的に述べられる。著者Sauerによれば、「もし哲学に認識的な目的というものがあるのだとしたら、哲学史に取り組むことによってその目的が阻害されてしまう」(p. 2)。「過去の「偉大な」哲学者たち、たとえばアリストテレス、ヘーゲル、ウィトゲンシュタインの仕事を研究することは、哲学の問題について驚くほどわずかなことしか教えてくれない」(p. 2)というのである。注意しておきたいのは、このとき著者の念頭にある「哲学の問題」は、かなり一般性が高いものだという点だろう。Sauerは哲学の問題の例として、以下のものを挙げる。「知識とは何か、私たちはそれをどうやって手に入れるのか。正義にかなった社会はどのように作り上げられるのか。人間の心はどのようにはたらくのか。自然法則とは何か」(p. 3)。

第1節「反歴史主義の歴史」(pp. 3–6)

タイトルからも分かるように、この節の主な目的は反歴史主義的な主張の先駆者を紹介することにあるとされる。しかし実際には、この節で著者はそれ以上のことをしているように思われる。ここでは、この論文の批判相手がどんな立場であり、どんな立場ではないかも明確にされるからだ。論文全体の趣旨にとって重要なのはむしろこの二番目の話題だと思われるので、そちらを少し詳しく紹介しておこう。

Sauerはこの論文で批判する立場を「哲学的歴史主義(philosophical historicism)」あるいは単に「歴史主義」と呼ぶのだが、この立場は次のように再定式化することもできる*3

  • 哲学的歴史主義 哲学史研究は、本論文のイントロダクションで挙げられた哲学の問題に取り組むための良い方法のひとつである。

哲学の問題とは何かについて、イントロダクションでつけられた限定がここでも保持されていることに気をつけよう*4

哲学的歴史主義に反対するSauerの見解は、一言では次のようになる。

私たちがこんにちにおいて良い哲学をしたいならば、過日の良き哲学についての知識は私たちの助けにはあまりならないだろう。(p. 5)

ただし、Sauerはこの論文では、「哲学史研究は哲学にとって有害だ」というより強いヴァージョンの反歴史主義を擁護しようとしているわけではない*5

Sauerの批判相手が何ではないかもはっきりさせておこう。この論文は、哲学史研究全般を批判しているわけではない。哲学史研究に人文学としての意義があることをSauerは留保なく認めている。過去の偉大な哲学者の著作を読むいい理由はいくらでもあるが、それらの理由のなかに「それが哲学のための良い方法だから」というものは含まれていない——というのがSauerの言い分だ。

また、この論文では、哲学史研究が哲学を研究するためのよい方法かどうかだけが問題になる。Sauer自身は哲学教育においても哲学史にそれほど大きな意義はないと考えているようだが、この点は本論文では争点にされない。

Sauerによれば、哲学的歴史主義が明示的に擁護された文献を見つけるのは簡単ではない。しかしそれは、擁護する必要が感じられない方法論上の仮定を明示的に擁護する必要性を人々が見てとることがないという事情によるのではないかとSauerは述べる。たとえばクリスティン・コースガードのカントについての著作(タイトルは挙げられていないが、たとえばこれ)やロバート・ブランダムのヘーゲル論の背後にあるとされるこうした前提を明示化すること、また、歴史主義に反対する立場についても同様の明示化を行うことを、本論文は目指している。

 

第2節 哲学史の言い分(pp. 6–11)

続いてSauerは、哲学的歴史主義を擁護する主だった議論を取り上げ、そのどれもが成功していないことを論じる。さまざまな論点が出てくるが、多くの批判のポイントはだいたい同じだ。哲学的歴史主義を擁護する議論はどれも、哲学史に取り組むことが「いい哲学をする」という目的を十全に達成するための手段であることを示せていないというのである。Sauer自身が引き合いに出すアナロジーを使って言い換えれば、哲学的歴史主義の擁護者たちは、ボディビルダーになりたいという人に「健康な食事をして毎日散歩しよう」という助言をしているようなものだ、という具合になる。

具体的にどのような議論が退けられるのかを簡単に確認しておこう*6

  • 哲学史に取り組むことは物事を分析し批判的に考えるスキルを高めてくれるという主張は、哲学的歴史主義を擁護することに成功していない。そうしたスキルを身につけるための手段として、過去の哲学者に取り組むことが現代の哲学者や哲学以外のことを学ぶことよりも優れているかどうかは、はっきりしていないからだ。
  • 哲学史に取り組むことは私たちの直観が歴史に相対的なものであることを教えてくれるという主張は、哲学的歴史主義を擁護することに成功していない。理由はふたつある。第一に、哲学者は直観にほとんど依拠していないと考えるいい理由があるし、私たちは哲学においてできるかぎり直観に依拠しないようにすべきだからだ。第二に、たとえ哲学者が直観に頼ることが正当だとしても、私たちの直観がどのように生まれてきたのかを知りたければ、哲学史研究以外の学問分野(心理学、生物学、通常の歴史学とりわけ文化史の研究)の方がよほど役立つからだ。
  • 哲学史研究に取り組むことは過去の哲学と同じ間違いを避けるために役立つという主張は、哲学的歴史主義を擁護することに成功していない。なぜなら、過去の哲学と同じ間違いをしたくなければ、過去の哲学に近づかないのが一番だからだ。
  • 哲学史は哲学者同士のコミュニケーションを可能にする共通語だという主張は、哲学的歴史主義を擁護することに成功していない。だって実際のところそんなふうにはなっていないでしょう。
  • 哲学史研究は正統派的な立場(orthodoxy)とは違う考え方をできるようにしてくれるという主張は、哲学的歴史主義を擁護することに成功していない。そうした目的のためには、小説を読んだり哲学以外の学問を学べばいいのではないだろうか。過去の「偉大な」哲学者を(主に)取り上げる現行の哲学史研究がどうして正統派の外に出ることを可能にしてくれるのだろうか。正統派の外に出たいなら、正統派を作り上げるのに貢献していない無名の哲学者を取り上げるべきではないだろうか。
  • 哲学史研究が哲学的な新発見をもたらしたとされる事例を挙げても哲学的歴史主義を擁護することはできない。哲学史研究が哲学的な新発見に影響を与えたということが成り立つためには、「特定の過去の哲学者の仕事への取り組みがなければ、その哲学的な新発見はなかっただろう」という反事実条件的な主張が真でなければならない。しかし、こうした主張の正しさは自明ではない。また多くの場合、因果関係は逆向きではないだろうか。つまり、哲学的な新発見が先にあって、それが過去の哲学者の似たような主張と結びつけるのではないだろうか。さらには、哲学史への取り組みが哲学に実際に貢献した場合があったとしても、そうした取り組みがないほうがさらに大きな成功につながったかもしれないではないか。

第3節 歴史上の著者たちはおそらく、ほとんどすべてのことに関して間違っていた(pp. 11–16)

この節ではタイトルにあるような主張が擁護される。Sauerによれば、過去の哲学者よりも現代のわたしたちの方が哲学的な問題に関して科学的・経験的な情報をたくさん持っているし、概念的な道具もより充実したものが利用可能なのだから、過去の哲学者たちが間違っている確率の方が高い。ここでSauerはいくつかの具体例を挙げていて面白いのだが、ここでは省略する。その代わりに、予想される反論への反論をまとめておこう。

上のような主張に対して出てきそうな反論は、「近年の科学的・経験的な情報や近年の概念や用語を身につけているかという認識的な基準を持ち出したら現代の哲学者がすぐれているという結論がトリヴィアルに出てきてしまう。それは論点先取ではないか」というものだ。この批判に対してSauerは、以下のような二段構えの応答をしている。

  • この文脈で「論点先取(question-begging)」という言い方をするのはミスリーディングだ。もしそうだとすると、自分が出したものとは反対の認識的な基準も論点先取だということになってしまう。なぜなら、問題となっているふたつの項目を基準から外すことは、過去の哲学者を有利にするための工作だと正当にみなせるからだ。
  • 問題は、この論文で掲げられた基準が過去の著者に対して不公平になっているかどうかだ。そしてこの基準は不公平ではない。問題の基準は、過去の哲学者だけでなく(哲学の専門家ではない)現代の多くの人々にも低い評価を与えることになる。過去の哲学者だけを不当に扱っているわけではない*7

またこの節では、予想される反論として、「最新の知見だって未来のより優れた哲学からすれば不十分なのだから、現代の哲学も無価値だということにになってしまわないか」というものも取り上げられる。これに対してSauerは、「現代の哲学がなければそれを用無しにする未来のより良い哲学も出てこない」という応答をしている。この反論と応答がとりわけはっきりと示すように、Sauerは哲学を、経験科学と同様の進歩をするもの(あるいはそうした進歩をすべきもの)として捉えている。

第4節 歴史上の著者たちはおそらく、もっと出来の悪い哲学者たちだった(pp. 16–21)

この節では、哲学そのものの議論の蓄積も含めてあれこれ進展がみられる現代の方が、過去よりも優れた哲学者たちがいっぱいいるのではないかということが、経験科学の進歩とのアナロジーも交えながら論じられる。具体的な話はだいたい想像がつくのではないかと思うので、ここでは印象的な一節だけ引用しておく。

傑出した天才が存在することは、ほとんどいつでも、ある学問分野がまだ発展の初期段階にあり、成熟した段階に至っていないことの印だ。成熟した学問分野の特徴は、その分野の最先端の議論がたった一人の精神によって見通せたり支配できたりしないことにある。哲学的な天才児の不在は、衰退の証拠というよりも、実際には私たちがうまくやってきたことを意味するのである。(p. 20)

第5節 私たちはどうやってここに辿り着いたのか(pp. 21–22)

この節では、哲学史研究が哲学をするための良い方法であるという考えがどうして共有されているのかについての所見が述べられる。ここで手がかりにされるのは、進化心理学の知見、出版バイアス、そして私たちがサンクコストの損切りを苦手としていることの三点だ。ただしSauerは、こうした説明の大部分はまだ思弁的なものに過ぎないということを断っている。

第6節 結論(pp. 22–24)

以上の議論を踏まえ、Sauerは、哲学をするならば、過去の哲学者たちより現代の哲学者の仕事を読むことにはるかに多くの時間を費やすべきだとあらためて結論する。そしてそのうえで、この論文が何を前提としてきたのかが確認される。それは、哲学の歴史をつうじて大まかには同じままであり続けている問題がいくつかあるという前提である(これらの問題の例はイントロダクションで挙げられていたのだった)。Sauerは自分の議論を、少なくともそうした哲学的問題の場合には成り立つものだとみなしている。

またこの箇所では、過去の哲学者が現代でも哲学的に重要だと考えたい人へのダメ押しの一言も述べられる。Sauerによれば、過去の哲学者が現代でも哲学的に重要だと主張することは、その哲学者が価値の薄れない達成を何もしていないと述べていることになる。というのも、このときそうした哲学者は、私たちがその肩の上に立つことができる巨人ではなかったことになるからだ。

最後にSauerは、哲学的歴史主義への処方箋として、歴史を健全なしかたで忘れることを提案する。Sauer自身がすぐに付け足すように、これはニーチェが『反時代的考察』(1874年)で歴史主義を批判する際に持ち出したものである。つまりSauerは自分が批判していたようなやり口を使って自分の哲学的な議論を締め括っている。野暮を承知で言うが、これはもちろんSauerのジョークだろう。

関連する記事

 

*1:同論文がInquiry誌の正式な巻号の一部になったとき、ページ番号は変わるはずだ。そのため、この記事を少し後になって読む人は、このエントリーで参照されているページを探すのに少し手間をかけてもらう必要がある。

*2:パラフレーズし過ぎ、パラフレーズが間違っているなどのツッコミをお待ちしています。

*3:以下の定式化は私によるものであって、これと正確に対応する文言はSauerの論文の中にはない。

*4:Sauer自身はこのことを明言するわけではないが、本論文が批判しようとしている哲学的歴史主義は、比較的穏当なものだといっていいだろう。なぜなら、この立場は、哲学史研究は哲学の良い方法のひとつだと主張するけれども、それが最良の方法だとも不可欠の方法だとも述べていないからだ。しかし、この穏当な哲学的歴史主義が退けられるならば、より大胆な哲学的歴史主義はもちろん誤りだということになる。哲学史研究が哲学の良い方法のひとつですらないならば、それはとうぜん最良の方法でも不可欠の方法でもない(「哲学史研究は哲学の良い方法ではないが、不可欠の方法ではある」と主張することも不可能ではないようにもみえるが、魅力的なオプションだとは言い難いのでここでは無視しよう)。

*5:このヴァージョンに言及し、しかも「時間は有限なんだから、いい哲学をやりたいならスピノザを読む時間を全部使って最近の論文を読むべきだ(大意)」という説明までつけるということは、Sauerはこのより強いヴァージョンを支持しているのかもしれない。しかしこの論文では、この強いヴァージョンは擁護されない。このことはp. 5で明言されている。そのため、イントロダクションの「もし哲学に認識的な目的というものがあるのだとしたら、哲学史に取り組むことによってその目的が阻害(frustrate)されてしまう」(p. 2)という言い方は、ややミスリーディングな気もする。
 もう少し細かい補足もしておこう。たしかに、上の言い方は間違っているわけではない。Sauerの議論がうまくいっているならば、哲学史研究に取り組むことは、あまり助けにならない方法に時間と労力を費やすことによって、哲学研究の認識的な目的(つまり、哲学問題に関するよりよい主張に至ること)を阻害する。しかし、ここで悪さをしているのはあくまでも時間と労力の浪費であって、時間と労力が投入される活動の内実ではない。このタイプの阻害は、たとえば(なんであれ任意の)趣味にのめり込みすぎることの帰結としても生じうるものである。以上のことはこの論文を全部読めばはっきりするが、論文の序盤でそれを十分に説明せずに上のような書き方をすることは、議論の進め方としてあまりいいものではないだろう。

*6:どうしてかはわからないが、この箇所でSauerは改段落をしてくれず、ひとつの段落が約5ページにわたって続いてしまっている。そのためこの箇所は、(とりわけパラグラフ・リーディングに慣れた人にとっては)読みにくくなってしまっているように思われる。

*7:このあたりの議論は最初は飲み込めなかったのだけど、Sauerがここで言いたいのはたぶん、「過去の偉大な哲学者も現代の多くの人々も現代哲学の素人という点では同じだよ。だったら、現代に哲学をやるときに、過去の偉大な哲学者の言っていることに現代の多くの人々よりもはるかに大きな信頼を置くことは(認識的に)合理的ではないでしょう」ということだと思う。この主張にもまだ疑問は残るのだけど、今回はそれにはこれ以上立ち入らない。