前回の記事の続き。大雑把には「現代哲学の研究に哲学史は必要ない」という主張を擁護した論文
- Hanno Sauer, "The End of History", Inqury.
について、いくつかの補足をしておく。ちなみに哲学史と哲学の関係について私は自分なりの考えをもっており、Sauerの論文にも賛成できるところとできないところがある。しかし前回と同様に今回のエントリーでも、原則として私見を交えずにSauerの主張をはっきりさせることしかしていない。また、原則を破って私見を述べる際には、それとわかる書き方をしたつもりだ。
前回のエントリーと同じく、以下ではこの論文を2022年9月現在の'Latest articles'版のページ番号だけで参照する*1。これまた前回と同じく、以下に出てくる鉤括弧は、そのあとにページ番号が付されている場合には同論文からの引用である(翻訳は植村による)。それ以外の鉤括弧は読みやすさのために植村がつけたものだ。
目次
Sauerは何を主張しているのか
「現代哲学の研究に哲学史は必要ない」という著者の主張を、もう少し詳しく再構成してみよう。
イントロダクションでの文言を引用すると、Sauerがこの論文で示したいのは「もし哲学に認識的な目的というものがあるのだとしたら、哲学史に取り組むことによってその目的が阻害されてしまう」(p. 2)ということだった。ここで「認識的な目的(epistemic aims)」と呼ばれるものが何かについて、Sauerはこの論文ではそこまで踏み込んで論じていない。だが、認識的目的の一部に「より合理的な考えを手に入れること」が含まれるということはまず間違いないはずだ*2。ここでの「合理的な考え」とは、大まかには、それが真だ(あるいは正解だ)とみなすことを支持する理由のある考えのことだ。
ここまでを踏まえた上で、以下のような状況を考えてほしい(読みやすさのために引用環境に入れているが、以下に書いてあるのは植村が考えた想定であり、Sauerからの引用ではない。)。
あなたはいま、「心と身体(特に脳)はどのような関係にあるのか。心の状態は脳の状態に過ぎないのか、それとも心の状態と脳の状態は同一ではないのか」ということが気になっている。いわゆる心身問題というやつだ。これが哲学の問題で(も)あるということは間違いないだろう。そしてあなたは、心身問題について、先に述べたような意味で合理的な考えを手に入れたい。ここまでの想定にしたがえば、あなたは、哲学には認識的な目的が(すくなくともひとつ)あることを受け入れていることになる。
さて、心身問題について考えるときに、何の参考文献もないというのは心細い。ネットで検索してみたら、次の3つのものが見つかった。
- 現代の神経科学(脳科学)の最新の成果を踏まえ、現代哲学の最新の論文を引用しながら意識と脳の関係について論じた、哲学の学会誌最新号の査読付き論文。
- デカルト『省察』のオンライン版。
- 匿名の著者による哲学ブログの「心と脳は同じものなのか?」というエントリー。参考文献などは特に挙げられていない。どうやら現代哲学の専門的な勉強をしたこともなく、経験科学にも特に関心のない人が趣味で書いているらしい*3。
あなたはこれら3つの文献をまだどれも読んだことがないが、それらを読みこなすための十分な能力を持っている。しかし多忙のため、文献を読むための時間は120分しかない。
こうした状況において、あなたはどのような時間配分で3つの文献を読もうとするだろうか(合計が120分になっていれば、ひとつまたはふたつの文献に0分を割り当ててもよい)。忘れないでほしいのだが、あなたはいま、心身問題について、それが真だ(あるいは正解だ)とみなすことを支持する理由のある考えを手に入れたいということになっている。
さて、多くの人は、3の文献を読むための時間を0分にするか、少なくとも1や2と比べてだいぶ短く設定するはずである。なぜだろうか。それはおそらく、時間(と注意力)が無尽蔵にあるならまだしも、120分のうちの多くを使って特に専門的な知見を持っていない素人の意見に耳を傾けることは、時間の無駄だから(あるいは、時間の無駄である確率が高いから)だろう*4。
それに対して、1と2については、おそらく人によって時間配分の仕方が違ってくるのではないだろうか。1と2のどちらか一方により多くの時間を割り当てる人もいれば、両方に同じくらいの時間を割り当てる人もいるだろう。
準備が整ったのでようやく本題に入ることができる。
私の理解が間違っていなければ*5、 Sauerによれば、目下の想定のもとで2(デカルトの『省察』)に多くの時間を割り当てる人は、「真だみなすことを支持する理由のある考えを手に入れる」という認識的目的を達成するための適切な手段を選んでおらず、認識的に不合理である。人間の脳について、現代の科学はデカルトの時代よりもはるかに優れた知見を提供してくれる。そして心と脳(あるいは身体)の関係について、現代の哲学はデカルトの時代よりもはるかに多くの議論を蓄積している(ここでの議論の蓄積には、デカルトの考えやそれに関する議論も含まれることに注意してほしい)。時間(と注意力)が無尽蔵にあるならまだしも、120分のうちの多くを使って現代よりも乏しい知見や議論の蓄積しか利用していないデカルトの著作を読むことは、時間の無駄である(あるいは、時間の無駄である確率が高い)というのである。
Sauerの言いたいことは、以上のような議論としても再構成することができる。この議論がうまくいっているならば、私たちは目下想定されている状況で認識的な目的を達成するために、デカルトの『省察』に可能な限り少ない時間を割く必要がある。つまりこの議論にしたがえば、心身問題について、デカルトは現代の素人とたいして違わない認識的な状況のもとにあったというのである。
何が誰にとって不要だとされているのか
これでSauerの主張とその根拠の一部がだいぶはっきりしたはずだ。これらを踏まえ、今回のサブタイトルにも掲げられた問いに答えを与えたい。
Sauerが「哲学史は不要だ」と主張するときに何が不要だと考えているかといえば、それは、歴史上の哲学者の著作を読むことである。そして、そしてSauerは哲学史が誰にとって不要だと考えているのかといえば、それは、哲学に認識的な目的があるとみなし、その目的を達成しようとしている人だ。
前節での補足も取り入れつつこれらをまとめると、Sauerの主張は次のようなものになる。
- もしあなたが特定の哲学の問題について、真だと考えることを支持する理由のある考えを手に入れたいならば、歴史上の哲学者の著作を読むことは不要である。
「特定の哲学の問題」とは何かを確認しておこう。Sauerは自分の主張を、少なくとも哲学の歴史においてずっと問われてきた問題に話を限った場合には成り立つものとして考えているのだった。そうした問題の例として、Sauerは以下のものを挙げている。「知識とは何か、私たちはそれをどうやって手に入れるのか。正義にかなった社会はどのように作り上げられるのか。人間の心はどのようにはたらくのか。自然法則とは何か」(p. 3)。ここで私見を述べておけば、ここにはツッコミどころがある。哲学の歴史でずっと問われ続けている問題があるというSauerの想定には疑問の余地が残る。詳しいことについては別の機会に譲りたい。
いくつかの補足
少し雑多になるが、Sauerが誰に何を要求しているのか、何を要求しているわけではないのかについて、もう少し補足的なことを述べておきたい。以下に書いてあることはかならずしもSauerが明言することではないが、本論文の議論からはそれらが帰結するはずだと私は考えている。
真であるとみなすことを支持する理由のある考えを手に入れることは二の次で、とにかく哲学の問題についてあれこれ楽しく考えてみたいという人に対して、Sauerは特に何も要求していないはずだ。実際Sauerは、楽しみのために過去の哲学者の著作を読むことについて、次のように述べている(亀甲括弧内は引用者の補足)。
〔カントの〕『純粋理性批判』や〔プラトンの〕『国家』に読む甲斐があるのはどうしてかについて、さまざまな理由がある。これらの独創的なテクストを熟読することは、それ自体のうちに固有のおもしろさを含んだ知的営みである。それらを読むことは、とてつもなくおもしろいことがよくある。(p. 4)
そして、人類の知的遺産としての古典的な哲学書やその著者を研究すること、つまり哲学史研究そのものを、Sauerは否定しているわけではない。そうした哲学史研究それ自体は重要であるが、(少なくとも特定の問題に話を限定するならば)哲学の研究には役立たない——これがSauerの言いたいことだ。
では、もしあなたが哲学の問題について、真だとみなすことを支持する理由のある考えを手に入れたいと思いながらも、古典を読んで楽しみたくもあるとしたらどうだろうか。おそらくSauerはあなたに、「そのふたつはトレードオフの関係にあるから、自分がどちらをより好むのかをよく考えた上で時間配分をするべきだ」と言うだろう。
またSauerは、自分の要求が当てはまる人たちに「歴史上の偉大な哲学者の知見をまったく無視して自分の頭で考えろ」と述べているわけでもない。Sauerによれば、哲学において認識的な目標の達成を目指す人は、歴史上の哲学者の著作を読むための時間を使ってもっと現在の著者の最新の文献を読めといっているのである。
そしておそらくSauerの考えでは、過去の偉大な哲学者が論じたことのうち重要で価値あることについては、現代の文献を読むことによっても身に付けられる。たとえば、「心を身体とは別種の実体とみなすと、心の状態と身体の状態のあいだに因果関係が成り立つことに説明を与えるのがとてつもなく難しくなる」ということは、ボヘミアの王女エリザベトがデカルトと書簡で議論をすることによって明らかにした重要な知見だ。この知見なしに心身問題を論じることはもはやできない。しかし、この知見を現在手に入れるために、二人の書簡を読む必要はもはやはない。心身問題に関する現代の哲学者の仕事を調べれば、心身二元論が心的因果(mental causation)の問題に関して深刻な難点を抱えていることはわかる。それで十分だ(書簡を読むのは時間の無駄だ)、とSauerは述べるのではないかと思う。
最後に、おそらくSauerは、少なくともこの論文のなかでは、「哲学史は哲学にとっていかなる場合にも役立たずだ」とまでは主張できていない。哲学の歴史においてずっと問われてきたわけではないような問題について認識的な目的を達成したいならば、おそらくSauerも、歴史上の哲学者の文献を読むことも時間の無駄ではない(かもしれない)ということを認めるだろう。たとえば「神の全知全能と人間の意志の自由はどうやって両立するのか」という問題は、現代の哲学にとって主要な問題ではもはやないといっていいと思う。しかし、この問題が気になって仕方ないという人もいるはずだ*6。この問題に関しては、真だとみなすことを支持する理由のある考えを手に入れるための一番の近道は、現在でも、中世の(あるいはルイス・デ・モリナのような近世の)スコラ哲学の著作を読むことかもしれない。すくなくとも、この場合にスコラ哲学の歴史上の著作を読むことは、心身問題の解決を求めてデカルトの著作を読むことよりは合理的だとは言えるのではないかと思う。
文献案内
認識的な目的に関する議論は、現代の認識論(知識の哲学)で盛んに論じられている。まだ少し先になるが、認識論に関する非常に優れた入門書の最高に信頼できる訳者の手による翻訳が、11月に出版される。
ダンカン・プリチャードの『知識とは何だろうか』(笠木雅史訳、勁草書房、2022年)だ。私は10年ちょっと前にこの本の原著第2版を読んで、認識論への認識をあらためた。
いわゆる心身問題は、現代でも哲学の主要な話題のひとつであり続けている。この問題を扱う現代哲学の一分野、心の哲学については、金杉武司『心の哲学入門』(勁草書房、2007)が、日本語で読める易しくて優れた入門書のひとつだろう。現代哲学の進展の目まぐるしさを踏まえると「少し前の本」ということになるのだが、最初の一冊としてはまだ古くなっていないと思う(ただし、出版当時には誰も予想していなかっただろう一連の出来事によって、著者が挙げる例はやや古くなってしまった。ネタバレ防止のために詳細は伏せておこう)。
ついでに紹介しておくと、同じ著者による近著も、アマゾンにはいわゆるクソレビューがついてしまっているが、私は良書だと思う。
わかりやすい例を挙げるために止むを得ず、今回はデカルトをある種の悪役に仕立て上げてしまった。せめてもの罪滅ぼしに、デカルト入門として定評のある小林道夫『デカルト入門』(ちくま新書、2006年)を挙げておこう。デカルトにとっての心身問題がどのようなものだったのかについては、同書の第4章第4節で論じられている。
デカルトという人は現代において悪役にされがちな哲学者で、しかも本人の書いたものをたいして読まずにいろいろなことが語られがちでもある。こうした状況へのデカルト研究の超大物による応答して、次のものがある。
最後に、今回のエントリーで触れた哲学史上の文献の情報も記しておこう。デカルトとエリザベトの書簡は翻訳されている(ただし、現時点では古本でないと手に入らない)。
デカルトの『省察』には複数の訳があり、三木清による訳は青空文庫で無料で読める。
より新しい訳については、値段と手に入れやすさを考慮するならば、ちくま学芸文庫版か中公クラシックスのどちらかということになるのではないかと思う。中公の方が少し高いが、こちらには『情念論』もついてくる。ちなみにちくま学芸文庫版『省察』は訳注が非常に充実している。
*1:同論文がInquiry誌の正式な巻号の一部になったとき、ページ番号は変わるはずだ。そのため、この記事を少し後になって読む人は、このエントリーで参照されているページを探すのに少し手間をかけてもらう必要がある。
*2:現代哲学の用語に慣れている人は、ここでの「考え」を「信念(beliefs)」に読み替えてもらってかまわない。
*3:で、お前は誰なんだよと思った人もいるかもしれないので一応述べておくと、私はプロの哲学&哲学史研究者(博士号持ち)です。プロフィールはこちら。https://researchmap.jp/uemurag/
*4:誤解のないように言っておくと、素人が哲学ブログを書くことが時間の無駄だと言いたいわけではない。哲学ブログを書くという行為を本人がそれを楽しんでいて必要としているならば、それは大切でかけがいのないものだろうし、(それが誰かに危害を与えないかぎり)他人がとやかくいうようなことでは決してない。
*5:本人は現役も現役なので、一連のエントリを書いてそれでも気になることがあったらメールでもしてみようと思う。
*6:ちなみにこの問題は、その気になれば無神論者や不可知論者でも論じることができる。「もし仮に全知全能の神が存在するとして、神の全知全能と人間の意志の自由はどうやって両立するのか」という問題は、神が存在しなくても、あるいは神が存在するかどうかという問題を保留しても論じることが可能である。