研究日誌

哲学と哲学史を研究している人の記録

フッサールの「ブレンターノの思い出」はいつ書かれたのか

この話の続き。フッサールのブレンターノ追悼文には、政治的な見解に関する両者の相違に関する記述がある。それによると、ブレンターノが大ドイツ主義者であったのに対して、フッサールは小ドイツ的なドイツ統一を主導したプロイセンへの好感を持っていたのだった。

さて、この話には少し引っかかるところがある。フッサールの文章が刊行されたのは1919年だ。このときすでに、ドイツ帝国もプロイセン王国ももはや存在していなかった。つまり、プロイセンへの愛国心の表出を含むフッサールの文章は、1918年11月のドイツ革命と第一次世界大戦の終結のあとに公になったのである。この点を踏まえると、フッサールの発言は、なかなか踏み込んだ行為として受け止められそうにもみえるかもしれない。

とはいえ、ここにはまだ問題が残っている。もしブレンターノ追悼文の原稿が実際に書かれた時期が1918年11月よりも後だとしたら、フッサールは革命と終戦の後のドイツで敢えてプロイセンについて肯定的に語ったというふうに理解することができるだろう。しかし、もしこの文章の執筆時期が1918年11月よりも前だとしたら、フッサールは革命後の状況のなかでプロイセンについて肯定的に語ってそれを公表しようとしたとは(少なくとも簡単には)いえなくなる*1

現在私たちの手に入る証拠に照らして考えるかぎり、フッサールが「ブレンターノの思い出」を書いた時期は1918年11月よりも前だと考えるのが妥当だろう。この文章は、オスカー・クラウスが編纂した『フランツ・ブレンターノ その生涯と学説を心に留めるために』の一部として発表された*2。そして同書の序言(Vorwort)でクラウスは、フッサールの寄稿に言及したうえで、末尾に「プラハ、1918年夏」と記しているのである*3

というわけで、私たちは「プロイセンへの愛国心の表出を含むフッサールの文章は、1918年11月のドイツ革命と第一次世界大戦の終結のあとに公になった」と述べることはできるが、「フッサールはプロイセンへの愛国心の表出を含む文章を、1918年11月のドイツ革命と第一次世界大戦の終結のあとに公にした」と述べるべきではない。二つの語り方の違いは大きい。

*1:仮にフッサールが出版前に校正で該当箇所を修正できたということがはっきりしていたのだとしたら、話は少しややこしくなるだろう。しかしいまはこの点には立ち入らない。

*2:Oskar Kraus (ed.), Franz Brentano. Zur Kenntnis seines Lebens und seiner Lehre, München: Beck, 1919.

*3:Cf. Kraus, Franz Brentano, pp. V, VII.