トレンデレンブルクの嫌味な文章(その1)
ここ何年か友人たちとアドルフ・トレンデレンブルクの『論理学研究』(第3版、1870年)をゆるゆると読んでいて、これがなかなか楽しいのですが、この楽しさの一部はトレンデレンブルクの嫌味ったらしい書き方にあることは間違いないですね(この嫌味な感じが苦手だという人もきっといることでしょう)*1。
たとえば第2版の序文のこれ。
哲学者は誰でも自分の手ではじめなければならず、自分独自の原理を持たなければならず、世界をそのなかに映し出すための特別なスローガンにしたがって磨き上げられた鏡を持たなければならない、というのはドイツにおける偏見である*2。
嫌味度でいったらこんなのはまだ序の口という感じなんですが、もし仮に私がドイツ古典哲学について本を書かなければいけないならばこれをエピグラフにしたいですね。そんな必要に迫られることは今世ではありえないので、ここに放出しておきます。
*1:トレンデレンブルクについて知りたいという人は、とりあえずバイザーのこの本を読めばいいと思います。Frederick C. Beiser, Late German Idealism. Trendelenburg & Lotze, Oxford University Press, 2013.
*2:Adolf Trendelenburg, Logische Untersuchungen, 3. Aufl., Leipzig: S. Hirzel, 1870, ix