秋葉剛史『真理から存在へ:〈真にするもの〉の形而上学 』(春秋社、2014年)を(だいぶ前に)著者の秋葉さんからいただいた。ありがとうございます。
博論をもとにした著作ということもあって内容的には高度なところもあるのだけど(特に心的因果の問題を扱った第8章は難しいと思う)、説明が丁寧だし、読者を迷子にさせない配慮に富んだ本なので、現代形而上学に馴染みのない人でも挑戦してみる価値があると思う。すでに科学基礎論学会の研究集会で書評セッションが行われたし(面白かったので、ぜひとも論文で読めるようにして欲しい)、おそらく『科学哲学』あたりにそのうち書評がでるだろう。というわけでここでは、『ワードマップ現代形而上学 』のときと同じように、やや搦め手から、現象学と現代形而上学の関係についての我田引水めいた覚え書きを残しておきたい。そしてそれをもって、「現象学を学ぶ人のための現代形而上学・現代形而上学を学ぶ人のための現象学」の第二弾としたい(前回予告したThomasson云々についてはそのうち…)。また、以下に書くことにはいろいろ大雑把なところもあるのだけど、あくまでも覚え書きなのでその辺は多めに見て欲しい(機会があれば、ここに書いたことをきちんとした(書評)論文に仕上げてもいいかと思っているのだけど、他にやるべきことが山積しているのでちょっと難しそう)。
『真理から存在へ』のサブタイトルにも登場する〈真にするもの〉(truthmakers)とは、「世界のうちに存在することで対応する命題を真理たらしめるような存在者」(『真理から存在へ』、p. 5)のことだ。秋葉本の狙いは、この〈真にするもの〉という道具立てを使って、「トロープ」と呼ばれる存在者が存在するという主張を擁護することにある。トロープとは個別的な性質のことで、このボールが持つ緑色や、あのボールが持つ緑色がその例として挙げられる。二つのボールの色が質的にまったく同じだとしても、それぞれが持つトロープは数的に別のものと見なされる*1。
Google Ngram Viewerで見れば一目で分かるように、「truthmakers」が英語の本に登場する頻度は1990年代に急激に増えている。その意味で、〈真にするもの〉は哲学の歴史の中ではかなりの新顔だ。とはいえ、その原型となる考えはそれよりも前に登場している。この手のことは哲学の歴史では起こりがちなのでそれ自体としてはそれほど驚くべきことではない。だが、〈真にするもの〉の場合に大切なのは、この主題に関する古典的な論文の一つであるMulligan, Simons & Smith “Truth-makers” (1984年)が、過去の哲学とのつながりを強く意識して書かれているという点だ*2。彼らは〈真にするもの〉という考えの源泉を、(『論理的原子論の哲学』の)ラッセル、『論理哲学論考』のウィトゲンシュタイン、そして『論理学研究』のフッサールに求めている*3。
この辺の事情については、秋葉本でも、述定的真理を〈真にするもの〉の候補者となる三つの候補者を挙げていく際につけられた注のなかである程度きちんと押さえられている。拙論が好意的に引かれているのでちょっとおもはゆいのだけど、引用しよう。
興味深いことに、以下で見る三種類の存在者は、どれも一九世紀後半から二〇世紀前半のドイツ・オーストリア哲学(特にF・ブレンターノとE・フッサール周辺)において論じられている。すなわち、事態についてはHusserl (1900/01), Reinach (1911)、トロープ(あるいは少なくともそれと同等のもの)についてはBolzano (1935), Husserl (1900/01: 3rd investigation), Stumpf (1873: 109ff.)で論じられており、《として対象》についてはBrentano (1933)で「付帯者(Akzidens)」の名の下で論じられている(cf. 秋葉 (2006b))。フッサールやライナッハを中心とする初期現象学派における「真理とその存在論的基盤」の問題については、植村(2011)で見通しよく整理されている。(『真理から存在へ』、p. 352、注(5))
フッサールの『論理学研究』(引用文中のHusserl (1900/01))に関して、軽く補足しておきたい。フッサールは『論理学研究』第六研究第39節で「真にする事態(wahrmachender Sachverhalt)」という語を使っている(『論理学研究 4 』、p. 146。ただしそこでは「立証する事態」と訳されている)。また、同書の第一巻(『純粋論理学へのプロレゴメナ』)では、事態が命題を真にするという考えを表明してうるようにも読める箇所がある(「何ものも、これこれしかじかと規定されることなしには存在しえないのであり、したがって〈それが存在し、これこれしかじかに規定されている〉というこのことは、まさしく存在自体の必然的相関者をなす真理自体である」(『論理学研究 1 』、p. 252)。)。これらを踏まえるならば、〈ある命題の真理を真理たらしめるものとしての事態〉という考えは、ここに萌芽的に現われていると言っていいだろう。少なくとも『論理学研究』に大きく影響された初期の実在論的な現象学派には、『論理学研究』からそのような発想を受け取った痕跡がはっきりとある*4。
というわけで、秋葉さんの言っていることはまったく間違っていない*5。しかし上で引いた注では、〈真にするもの〉としての事態に関して初期現象学が残した議論が持つ、ある側面への言及がまったく抜け落ちてしまっている。それは、彼らが事態を判断という(心的)作用の相関者として扱っているという点だ。簡単に言うと、初期の現象学者たちは、ある命題とそれを真にする事態との関係を、その命題を内容とした判断の志向性に関する議論(つまり、判断の現象学)と関連づけて論じていたのだ。こうした発想は〈真にするもの〉に関する現代の議論にはほとんど見られないため、初期現象学派の議論をユニークなものにしている要因とみなすことができる。
ついでに言っておけば、上で引用した注で述べられていた「トロープ(あるいは少なくともそれと同等のもの)」や「付帯者(Akzidens)」についても、初期現象学における議論は、われわれの体験に関する現象学的分析と無関係ではなかった。たとえばフッサールがトロープ(「契機(Momente)」)について大々的に論じる『論理学研究』の第三研究(翻訳だと『論理学研究 3 』に入っている)では、視覚的な経験が持つ特徴に訴える議論が頻出する。このことは、フッサールの議論が下敷きにするシュトゥンプフの考察が視覚的・聴覚的な知覚経験に関する記述的心理学的な探究という文脈に属していたことを考えれば不思議ではない。フッサールにとってのトロープ(ないし契機)とは、まずもって知覚的な経験に登場する個別的な性質のことであって、(可能な)知覚的経験への言及なしに導入されるものではない*6。
さて、問題は、こうしたユニークさにどういう哲学的な眼目があるのかだ。昔の人たちが〈真にするもの〉の形而上学に志向性という余計なものを持ち込んで問題を無意味に複雑にしていただけだとしたら、初期現象学派のユニークさは歴史的な関心の対象にしかならないだろう。しかし私見では、ここには考慮に値する発想があるように思える。なぜなら、真理の担い手と秋葉さんが見なすものである「命題(propositions)」の存在論的身分を明らかにする際に、判断の志向性に着目する必要が出てくるからだ。
『真理から存在へ』は、命題については必要最小限のことしか語っていない。命題とは何かを説明している箇所をほぼ丸ごと引用しよう。
すでにこれまでの叙述からも明らかなように、この点に関し本書は大部分の論者にしたがい、真偽の担い手は命題という存在者だと仮定する。そして命題の本性については、同じく標準的な見解にしたがいおおよそ次のように仮定する。すなわち命題は、自然言語の平叙文(もちろん異なる言語の文でもよい)を使って表現されうる文の意味内容である。そして、ある文Pを使って表現される命題は、「Pという命題」や「命題P」といった名前で呼ばれることができる。命題は真偽の第一義的な担い手であり、たとえば命題Pを表現する文が真(ないし偽)であるのは、それが表現しているところの命題Pが真(ないし偽)であることによってである。また命題は、信念やその他の心的態度の内容ないし対象となることができる。たとえば命題Pは、Pという信念やPという知識、Pが実現して欲しいという願望といった心的態度の内容ないし対象である。(『真理から存在へ』、pp. 55-56)
この本は全体としては読者に対する配慮に富んだ本なのだけど(この点は本当に賞讃されるべきだと思う)、命題とは何かについての説明はやや物足りないというか、それが何かについてある程度知らない人にはやや分かりにくい気がする。
しかし、上の説明からもはっきりと読み取れるように、秋葉さんや標準見解にしたがうならば、命題とは、自然言語の文によって表現され、われわれの心的態度の内容ないし対象となるもののことだ。こうしたものの存在論的身分を明らかにする際に、われわれの心が世界内の何かについてのものであるという特徴、つまり志向性をまったく考慮しないわけにはいかないだろう。われわれの心的態度(の多く、少なくとも命題を内容とするもの)が志向性を持つということは明らかだし、自然言語の文が意味を持ち、何かについて述べることは、われわれの心的態度の志向性から派生した事実であるように見えるからだ。すると、〈真にするもの〉の形而上学を〈真にされるもの〉としての命題も扱うより包括的なものに拡張するためには、志向性の形而上学が欠かせなくなるのではないだろうか。
ここまでだと、『真理から存在へ』で論じられていた〈真にするもの〉の形而上学はさらに拡張される必要があり、そのときには秋葉さんが取り上げなかった話題を射程に収める必要がある、という当たり前といえば当たり前の話でしかない。しかし、秋葉さんにとって問題になりそうな懸念もここにはある。というのも、最近のKevin Mulliganが論じたように、〈真にするもの〉とは何かという問題に命題やわれわれの心的態度の志向性に関する考察を関連づけることで、〈真にするもの〉は実は存在論的に基礎的なものではないという主張に余地が生まれるからだ*7。もしこの主張が正しいとしたら、「トロープが存在することを、それが〈真にするもの〉の役割をもっともよく果たすことから論証する」という秋葉本の基本的なアイディアにはけっこう大きな欠陥があることになる。そうやって存在することが擁護されたトロープは、実在の基本的な構成要素であることが保証されないからだ*8。
こうした懸念に対して秋葉さんがどのように対応するのかが是非知りたいところだ。
*1:もう少しちゃんとした特徴づけについては、秋葉本のpp. 3-4, 49-51あたりを参照。
*2:この論文のpdfは以下から入手できる。http://ontology.buffalo.edu/smith/articles/truthmakers/tm.pdf
ちなみに、〈真にするもの〉としての役割を果たすのはトロープであると考える点で、彼らの立場は秋葉さんと同じだ。『真理から存在へ』p. 49を参照
*3:この本の翻訳は四分冊になっている。『論理学研究 1 』、『論理学研究 2 』、『論理学研究 3 』、『論理学研究 4 』。
*4:この辺については、秋葉本でも言及してもらった拙論、植村玄輝「ライナッハと実在論的現象学の起源:包括的研究への序説」(『現象学年報』第27号、 2011年、63-71頁)で論じたので、興味のある方はぜひどうぞ。現時点では入手が難しいのだけど、たぶん2015年3月末までに電子化されるはず。
*5:というか、『真理から存在へ』の奥付にある著者紹介を見れば分かるように初期現象学は彼の専門の一つだ。そして個人的には、細々とでもいいから今後もブレンターノ研究を続けて欲しい。
*6:といっても、実際にはトロープの導入は、暗黙的にわれわれの知覚経験の事例に訴えることによってなされているような気がする。秋葉本もそうだけど、多くの場合にトロープの例として最初に挙げられるのは色や形のような知覚可能な性質で、しかも「このボールの緑色」といった直示詞を含む表現がその際に使われるので。
*7:Mulliganの議論はいくつかの論文の中に散在しているのでちょっと分かりにくいのだけど、彼のサイトにアップされている”Two Dogmas of Truthmaking”, ”Facts, Formal Object and Ontology”, “Assent, Proposions and Other Formal Objects”, “Intentionality, Knowledge and Formal Objects”, “Truth and the truth-maker principle in 1921”あたりを参照のこと。最後の論文で論じられているように、Mulliganのアイディアの源泉の一つは、初期の現象学者アレクサンダー・プフェンダーだ。
*8:とはいえ、Mulliganの議論が標的としているのは、もっぱら〈真にするもの〉としての事態は存在論的に基礎的であるという考えなので、この辺はもっと慎重に考える必要がある。