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研究日誌

哲学と哲学史を研究している人の記録

Springer Linkから無料でダウンロードできる*哲学関係の昔のドイツ語の本(*2015年12月28日現在)

鍵付きのツイッターアカウントに書くのもなんなので、メモも兼ねてこちらにリスト作っておきます。またあとで追加するかも。

  1. Hermann Weyl, Raum · Zeit · Materie - Springer
  2. Karl Jaspers, Allgemeine Psychopathologie - Springer
  3. Moritz Schlick, Allgemeine Erkenntnislehre - Springer
  4. Rudolf Carnap, Logische Syntax der Sprache - Springer
  5. Rudolf Carnap, Einführung in die symbolische Logik - Springer
  6. Karl Popper, Logik der Forschung - Springer
  7. Alfred Schutz, Der Sinnhafte Aufbau der Sozialen Welt - Springer
  8. Tomoo Otaka*1Grundlegung der Lehre vom sozialen Verband - Springer
  9. Felix Kaufmann, Methodenlehre der Sozialwissenschaften - Springer
  10. Gerhart Husserl*2Der Rechtsgegenstand - Springer,
  11. Gerhart Husserl, Rechtskraft und Rechtsgeltung: Eine Rechtsdogmatische Untersuchung - Springer
  12. Ernst Cassirer, Die Begriffsform im Mythischen Denken - Springer
  13. Erwin Straus, Vom Sinn der Sinne - Springer
  14. Alexius Meinong, Über die Erfahrungsgrundlagen unseres Wissens - Springer

*1:尾高朝雄。

*2:フッサールの息子、法哲学者。

Springer Linkから無料でダウンロードできる*現象学関係の文献のおすすめ(*2015年12月28日現在)

どういう経緯によるのかはわからないけど、Springerの電子書籍の一部(といっても大量)が無料でダウンロードできるようになっている。

togetter.com

というわけで調べてみたところ、HusserlianaHusserliana MaterialienEdmund Husserl Collected WorksPhaenomenologicaも部分的に無料になっていた。他にも検索するといろんなものが出てくる。素晴らしいですね。

 

しかしこれだけ大量にあると、片っぱしからダウンロードするにも多すぎるくらいなので、個人的なおすすめ文献リストを若干のコメントと一緒に作っておきます。選択の基準は、自分で全部ないし部分的に読んだもののうち、おもしろかったものと、(おもしいかどうかは別として)必読だと思ったもの。あとは(まだ)読んでないけど信頼できる人がすすめていたり、すでに定評がある文献も。

 

ブレンターノ学派、初期現象学

  1. Die Erkenntnistheorie von Roman Ingarden - Springer
  2. Intentionalitätstheorie beim frühen Brentano - Springer
  3. Die Ontologie Franz Brentanos - Springer
  4. Husserl’s Position in the School of Brentano - Springer
  5. Content and Object - Springer
  6. Von Bolzano zu Husserl - Springer
  7. Judgment and Sachverhalt - Springer
  8. Speech Act and Sachverhalt - Springer
  9. Readings on Edmund Husserl’s Logical Investigations - Springer
  10. One Hundred Years of Phenomenology - Springer
  11. Husserl’s Logical Investigations Reconsidered - Springer

1-3は分析哲学の道具立てを駆使してインガルデンやブレンターノの立場を再構成するという手法で書かれた本。博士課程のはじめの方に読んで、博論にいたるまでの私の研究にだいぶ大きな影響を与えたと思う。とくに2は、タイトルの地味さが惜しまれる名著。4は、ブレンターノ学派の主要な哲学者(+ボルツァーノ)の基本的な主張が、フッサールと関係するものを中心に手堅くまとめてあって、その辺に関する入門書として最適。(おもしろいかどうは別として)フッサール研究者には全員読んでおいてほしい本。5はトヴァルドフスキ研究書。伝統的形而上学と初期現象学の隠れたリンクに関する重要な指摘を含む。6は、フッサールがボルツァーノの「命題自体」概念を受容する際にロッツェのイデア論解釈がどういう役割を果たしたかについて詳しく論じた貴重な本。7はライナッハの全体像を描く研究で、入門書としても読めるかも。8もライナッハ関係。マリガンとバリー・スミスのそれぞれによる気合の入りまくった論文もいいんだけど、じつはキュネのやつがかなりおもしろい。そして巻末のAnnoted Bibliographyの情報量が凄まじい。9はフッサールの『論理学研究』に関する文献を集めた古い論文集で、さすがに今読まなくてもいいかもというものもあるんだけど、部分全体論に関するソコロウスキの論文はいまだに定番文献で、あと、なぜかあまり言及されないけど真理と明証に関するパツィッヒの論文はたいへん素晴らしい。10と11は、『論理学研究』刊行100周年をきっかけにして出版された論集。個人的なおすすめは、10のベルネット、ブノワ、ザハヴィ、ソコロウスキ論文と、11のセベスティック、キュネ論文。

 

フッサール研究の古典と定番

  1. Das Problem des Ich in der Phänomenologie Husserls - Springer
  2. Kausalität und Motivation - Springer
  3. Phänomenologie der Assoziation - Springer
  4. Perspektiven transzendentalphänomenologischer Forschung - Springer
  5. Die Fundamentalbetrachtung der Phänomenologie - Springer
  6. The Formation of Husserl’s Concept of Constitution - Springer
  7. Lebendige Gegenwart - Springer
  8. Husserl und Kant - Springer
  9. Studien zur Phänomenologie 1930–1939 - Springer
  10. The Development of Husserl’s Thought - Springer
  11. Husserl-Ausgabe und Husserl-Forschung - Springer
  12. Husserlian Intentionality and Non-Foundational Realism - Springer

この辺はぜんぶ、関連する話題を取り上げるなら読まないといけないか、読んで損することはないものばかり。1はフッサールの自我論について修論レヴェル以上の何かを書くならいまだに必読。修論までなら、先行研究としてこれと田口茂『フッサールにおける“原自我”の問題―自己の自明な“近さ”への問い 』を押さえておけばとりあえず十分かも。2は『イデーンII』のお供に。3はとにかくフッサール現象学と当時の心理学との関係に関する情報量がすごい。気になる節だけ拾い読みしても役立つ情報が見つかる。4に入っているヘルトの間主観性論文とクレスゲスの生活世界論文は、それぞれ古典的な論文。5はあまり言及されないけど、フッサールの世界論としていくつかの重要な指摘を含んでいると思う。6はとにかく明晰。フッサール研究者だけでなく、多くの人に読んでほしい本。知覚の哲学に興味のある人も読んで面白いと思う。7はかの有名なヘルトの『生き生きした現在―時間と自己の現象学 』の原著。8も必読の基本文献。フッサールとカントおよび新カント派の関係についての基本的な情報はこれを読めばだいたい手に入る。9はフィンクの初期の論考を集めたもの。フッサール本人のお墨付きであることで知られるフッサール論など。10はタイトルからもわかるように、フッサールの思想の発展を時系列に沿って再構成した本。地味な雰囲気を放っているけど、実は重要な問題提起がいろいろなされている、もっと多くの人に読まれていいはずの本。11に入っている論文のうち、非客観化作用に関するメレ論文とノエマに関するベルネット論文はそれぞれの話題に関する必読文献。12は、今読むといろいろ不満なところが出てくると思うけど、卒論を書くときにたいへんお世話になった本。とりわけ最初の5章くらいまでは『論理学研究』の第五研究や『イデーンI』を読むときの副読本として非常に有益。 

 

まだまだいろいろあるんだけど、あまりたくさん書くときりがないのでこの辺で。 

『アリストテレス的現代形而上学』の担当箇所紹介

先日発売され、前回のエントリ(目次はそちらで見ることができます)でも紹介したトゥオマス・タフコ(編)『アリストテレス的現代形而上学』について、訳者の一人である鈴木さんが担当した章(第4章と第12章)の簡単な紹介をしている

というわけで、私も自分が担当した章に関する簡単な紹介をしたい。

 

トゥオマス・タフコ 「序論」

この序論では、アリストテレス的な形而上学とは何かについてのごく簡単な説明の後に、本書に収められた14篇の論文の内容が順番に紹介されている。『アリストテレス的現代形而上学』は、基本的にどこから読みはじめてもいいような構成になっているので、この序論と「訳者解説」をまずはチェックして、興味深いと思った章に進むといいと思う。

 

第3章  ティム・クレイン 「存在と量化について考え直す」

鈴木さんが翻訳を担当したエリック・オルソン「同一性・量化・数」と対をなすこの論文は、オルソン論文と同じく、アリストテレス的な雰囲気がやや希薄だ。ここでのクレインの目的は、クワインが「なにがあるのかについて」(『論理的観点から』所収)で表明した、量化と存在に関する考えに反対することにある。これはアリストテレス的形而上学に固有の話題というわけではない とはいえ、クワイン的な形而上学はアリストテレス的形而上学の最大の論敵の一つなのだから、クレイン論文は、アリストテレス的現代形而上学への援護射撃の試みとみなすこともできるだろう*1。また、量化と存在に関するクワインの考えが、現代形而上学におけるきわめて有力な標準的見解であり続けているという事実を考慮するならば、それに反対するクレインの試みは、アリストテレス的形而上学に関心のある人にとってはもちろん、より多くの人にとって興味深いものではないかと思う。たしかにクレインの議論は英語という言語に密着しているうえに*2、論理学についてのちょっとした知識が必要なので、若干とっつきにくいところがある。けれども、とても丁寧かつ明晰に話が進められるので、じっくり読めば主要な論点を抑えることはできるはずだ。

さて、量化と存在に関するクワイン的な考えによれば、存在は、量化表現(たとえば英語の「some」)と結びつけられる。こうした見解に反対する際にクレインが論拠とするのは、英語の文には、(1)存在しないものに量化し、かつ(2)真であるような文(例「聖書の登場人物の何人かは存在したが、何人かは存在しなかった」 )がたくさんあるという事実だ。この事実を手掛かりにして、クレインは、自然言語やわれわれの心の志向性についてより良い理解をしたいならば*3 、存在と量化を結びつけるクワイン的な見解は維持できないということを、そもそもここで何が問題になっているのかを明らかにしたうえでじっくりと論じていく。

クレイン論文に関して個人的に興味深いのは、存在と量化に密接な関係を断ち切ることで、クレインがここでマイノング主義に接近していることだ。少なくとも、マイノング主義の最小限の特徴を量化のドメインに入っていることを存在していることと区別する点に求めるならば*4、ここでクレインが擁護しているのは、紛れもなく(最小限の)マイノング主義だと言える。とはいえクレインは、マイノングや、新マイノング主義の代表格であるプリースト(『存在しないものに向かって: 志向性の論理と形而上学』)からは一定の距離をとっているように見える(少なくともこの論文では、クレインは自分 をマイノング主義者とは見なさない)。では、クレインとマイノングやプリーストのあいだには違いがあるのか、違いがあるとしたらそれは何なのか。この辺については、機会があったらぜひ考えてみたい。

 

第5章 ゲイリー・ローゼンクランツ 「存在論的カテゴリー」

クレイン論文とは対照的に、ローゼンクランツは、アリストテレス的な形而上学どまんなかという主題を論じている。ローゼンクランツ論文は、アリストテレス的な意味での存在論的カテゴリーとは何かの解明を、ある述語が存在論的カテゴリーを正しく表現するために満たさなければならない十分条件を10個あげることで行おうとする*5。 この論文が採用している手法は、(ある時期までの)分析哲学を彩っていた、もはや古典的とさえいうことができるものだ。10個の十分条件を一つずつ導入する際に、ローゼンクランツは、存在論的カテゴリーとは何かに関するわれわれの直観を(ときに暗黙のうちに)引き合いに出し、自分の十分条件が反直観的な帰結を封じ込めることを論じている。また、この論文の中ではきちんと議論されているわけではないのだけれども、ローゼンクランツは、それらの十分条件が、ある述語が存在論的カテゴリーを正しく表現するための必要条件でもあると考えているようだ(論文末尾を参照)。つまり、ローゼンクランツがこの論文でやろうとしているのは、いわゆる「概念分析」というものだといっていいだろう*6。ローゼンクランツ論文を読めば、形而上学の分野ではチザムが駆使していたことで知られる手法について、実地に即した理解が得られるだろう。

  

*1:この辺りについては『アリストテレス的現代形而上学』の訳者解説6-7頁も参照。

*2:とはいえ、クレインの議論の大半は、適宜変更を加えれば日本語を題材としても成り立つはずだ。クレインが英語に関して述べているけど日本語には成り立たないことが何か、逆に、日本語を例としたときにクレインには思いもつかなかった問題が出てくるのではないか、といったことを考えながら読むというのは、この論文の楽しみ方の一つだと思う。

*3:クレインも承知しているように、クレインが「記述的アプローチ」と呼ぶこうした方針そのものににクワイン自身は否定的だ(『アリストテレス的現代形而上学』94-95頁参照)。したがって標準見解に対するクレインの批判は、クワイン的な形而上学を正面から批判しているわけではない。

*4:この点については、拙論「『存在しない対象が存在する』というマイノングの主張について:明確化の試み」を参照してほしい。

*5:『アリストテレス的現代形而上学』には、存在論的カテゴリーとは何かという基礎的な問題への取り組みを含む論文がもうひとつ所収されており、それは第8章のサイモンズ論文だ。

*6:ただしローゼンクランツ自身は、「哲学的分析」という言葉しか使っていない。

【おしらせ】『アリストテレス的現代形而上学』(春秋社、2015年)

翻訳者として参加していた、Tuomas E. Tahko (ed.), Contemporary Aristotelian Metaphysics (Oxford University Press, 2012)の翻訳がついに発売されます。2015年1月20日現在だとAmazonで原著がペーパーバックやKindle版よりもハードカヴァーが安いという状態にありますが、この翻訳では訳者たちが発見したいくつかのミスが(場合によっては著者に確認をとって)集成修正されているので、どちらか一冊だけ買いたいという場合には翻訳がいいのではないかと思います。

 

私は序論・第3章・第5章を担当しました。ぱっと調べたかぎりだと目次をネット上で確認できないようなので、ここに書き写しておきます。参考にしてください。

  • 加地大介 「訳者解説 分析哲学のなかのアリストテレス的形而上学」
  • まえがき
  1. キット・ファイン 「形而上学とは何か」
  2. トゥオマス・E・タフコ 「アリストテレス的形而上学を擁護する」
  3. ティム・クレイン 「存在と量化について考え直す」
  4. エリック・T・オルソン 「同一性・量化・数」
  5. ゲイリー・ローゼンクランツ 「存在論的カテゴリー」
  6. アレクサンダー・バード 「種は存在論的に基礎的か」
  7. ジョン・ヘイル 「四つのカテゴリーのうちふたつは余分か」
  8. ピーター・サイモンズ 「四つのカテゴリー:そしてもっと」
  9. ジョシュア・ホフマン 「新アリストテレス主義と実体」
  10. ルイス・M・グーニン 「発生ポテンシャル」
  11. ストール・マコール 「生命の起源と生命の定義」
  12. カトリン・コスリツキ 「本質・必然性・説明」
  13. デイヴィド・オダーバーグ 「現実性なくして潜在性なし:グラフ理論による議論を退ける」
  14. E・J・ロウ 「新アリストテレス主義的実体存在論のひとつの形:関係的でも成素的でもなく」
  • 訳者あとがき
  • 参考文献
  • 索引

 

ウィリアム・フィッシュ『知覚の哲学入門』(勁草書房、2014年)

訳のチェックに関してほんのちょっとだけ協力させてもらったウィリアム・フィッシュ『知覚の哲学入門』(勁草書房、2014年)を、(だいぶ前に)訳者のみなさんからいただいた。ありがとうございます。

 

私は『知覚の哲学入門』を二年くらい前に原著で読んだのだけど、この本にはずいぶんと助けられた。フィッシュの見事かつフェアな解説によって、当時の私がきわめてぼんやりとしか理解していなかった知覚の哲学の論争状況がかなりはっきりと掴めるようになったからだ。実際、フィッシュ本を読む前と読む後では、知覚の哲学の専門的な論文を読むスピードも理解の度合いが上がった気がする(専門的な論文をそれなりに読めるところまで連れて行ってくれる入門書というのは、そんなに数多くあるわけではない)。

論争状況の見事な整理を可能にしているのは、フィッシュが同書の第一章で導入する、二つの帽子という考えだろう。知覚に関する哲学的な理論は知覚経験が持つ現象的特徴と認識論的な地位をきちんと説明しなければならないということを、フィッシュは現象学の帽子と認識論の帽子をうまくかぶることになぞらえ、さまざまな理論をこれら二つの基準を軸にして吟味していく*1。なお、このたとえを使ってフィッシュが現在の論争状況に対して下す全般的な診断は、「少しばかり単純化して述べると、現象学の帽子が似合えば似合うほど認識論の帽子は似合わなくなり、その逆もまた同様である」(p. 3)というものだ。

 

ちなみに、同書に出てくる「現象学(phenomenology)」についてはちょっと注意が必要になる。ここでの現象学とは、フッサールに始まる哲学の伝統のことではなく、経験が備えている現象的性格のことだ*2。たとえば、ピンク色の象を見ることと灰色の象を見ることには、意識的な経験として重要な違いがある。トーマス・ネーゲルが『コウモリであるとはどのようなことか』所収の同タイトルの論文で使った有名なフレーズを使えば、それら二つの経験は、それぞれが「どのようなことであるのか(what it is like)」に関して異なっている。知覚経験の現象的性格や(この本に出てくる)知覚の現象学とは、この違いに対応するもののことだ。この「現象学」がフッサールの現象学と同じものではないことは明らかだろう*3

 

さて、今回この記事を書くために『知覚の哲学入門』をパラパラと読み直してあらためて感銘をうけたのは、フィッシュの手際の見事さだ。二つの帽子を駆使したそれぞれの立場の整理はもちろん、個別の議論の再構成の仕方も総じて分かりやすく、面白い。この本を丁寧に読めば、哲学の議論というのはどのようになされているのかについても、知覚の哲学と言う実例に則した理解が得られるのではないかと思う。 とはいえ、知覚の哲学についてある程度の知識を身につけ、そこで論じられている問題に自分なりの見解を持つようになった今となると、フィッシュの整理の仕方に少し疑問が出てきてもいる。『知覚の哲学入門』のハイライトの一つは、現代の知覚の哲学の主要な対立である志向説(intentionalism)と選言説(disjunctivism)を扱う第5章と第6章なのだけど、同書での選言説の扱い方には、もう少し工夫ができたのではないかと思う。

フィッシュは選言説を一般的な仕方で導入してから、それが素朴実在論(naive realism)や関係説(relationalism)という立場の擁護に使えるという話の進め方をしている。こうした解説の仕方はもちろん間違ってはいない。フィッシュが述べるように、選言説は素朴実在論や関係説と結びつくとは限らないからだ(6.4の内容選言説を参照)。しかし、選言説を選択肢として魅力的なものになるのは、やはり、(真正の)知覚の場合には、知覚される世界内の対象そのものが当該の経験の現象的性格を構成しているという素朴実在論的な考えと結びついたときなのではないだろうか。言い方を変えれば、フィッシュのように選言説をまずは素朴実在論とは独立的に導入することは、この立場の提示の仕方として、ちょっと損なのではないだろうか*4

 

というわけで、『知覚の哲学入門』の選言説の章、特に、直観的に分かりにくい感じのする最初の方の話は、人によってはちょっと我慢して読まなければならないかもしれない(少なくとも私の場合はそうだった)。しかしこの章も内容的には信頼できるし、上で書いた難点を補ってあまりある美徳を備えた本なので、広く読まれて欲しいと思っている。

*1:ただし、この二つが基準のすべてであるわけではない。フィッシュが第一章で断っているように、知覚の哲学的理論の評価には、知覚に関する経験科学的知見と両立するかといったその他の基準も関わる(p. 3)

*2:英語の”-logy"というかたちの語は、これこれについての研究・学問という意味だけでなく、そうした研究が扱っているもののことを意味することがある。”-logy”と同じ語源の”logic”にも、論理学という特定の学問分野ではなく、特定の推論に働いている規則や規範(つまり、日本語で言うなら「論理」)として理解しないといけない用法がある

*3:しかしその一方で、フッサールに始まる現象学がフィッシュ本の意味での現象学を扱っていることは明らかだ(それだけを扱っているのではないにしても)。実際フィッシュ本は現象学を学んでいる人にこそ読んで欲しいと思っているのだけど、その話は別の機会(もしあれば)に譲りたい。

*4:フィッシュ自身が素朴実在論者で選言説の擁護者であることを考えると、これはちょっと妙な気もする(彼自身の立場はPerception, Hallucination, and Illusion で詳しく論じられている)。でもこれは見方を変えれば、フィッシュがい『知覚の哲学入門』をどれだけフェアに書こうとしているかの証拠だ、と言えるのかもしれない。実際のところ、

現象学を学ぶ人のための現代形而上学・現代形而上学を学ぶ人のための現象学(2)

秋葉剛史『真理から存在へ:〈真にするもの〉の形而上学 』(春秋社、2014年)を(だいぶ前に)著者の秋葉さんからいただいた。ありがとうございます。

 

博論をもとにした著作ということもあって内容的には高度なところもあるのだけど(特に心的因果の問題を扱った第8章は難しいと思う)、説明が丁寧だし、読者を迷子にさせない配慮に富んだ本なので、現代形而上学に馴染みのない人でも挑戦してみる価値があると思う。すでに科学基礎論学会の研究集会で書評セッションが行われたし(面白かったので、ぜひとも論文で読めるようにして欲しい)、おそらく『科学哲学』あたりにそのうち書評がでるだろう。というわけでここでは、ワードマップ現代形而上学 』のときと同じように、やや搦め手から、現象学と現代形而上学の関係についての我田引水めいた覚え書きを残しておきたい。そしてそれをもって、「現象学を学ぶ人のための現代形而上学・現代形而上学を学ぶ人のための現象学」の第二弾としたい(前回予告したThomasson云々についてはそのうち…)。また、以下に書くことにはいろいろ大雑把なところもあるのだけど、あくまでも覚え書きなのでその辺は多めに見て欲しい(機会があれば、ここに書いたことをきちんとした(書評)論文に仕上げてもいいかと思っているのだけど、他にやるべきことが山積しているのでちょっと難しそう)。

 

『真理から存在へ』のサブタイトルにも登場する〈真にするもの〉(truthmakers)とは、「世界のうちに存在することで対応する命題を真理たらしめるような存在者」(『真理から存在へ』、p. 5)のことだ。秋葉本の狙いは、この〈真にするもの〉という道具立てを使って、「トロープ」と呼ばれる存在者が存在するという主張を擁護することにある。トロープとは個別的な性質のことで、このボールが持つ緑色や、あのボールが持つ緑色がその例として挙げられる。二つのボールの色が質的にまったく同じだとしても、それぞれが持つトロープは数的に別のものと見なされる*1

Google Ngram Viewerで見れば一目で分かるように、「truthmakers」が英語の本に登場する頻度は1990年代に急激に増えている。その意味で、〈真にするもの〉は哲学の歴史の中ではかなりの新顔だ。とはいえ、その原型となる考えはそれよりも前に登場している。この手のことは哲学の歴史では起こりがちなのでそれ自体としてはそれほど驚くべきことではない。だが、〈真にするもの〉の場合に大切なのは、この主題に関する古典的な論文の一つであるMulligan, Simons & Smith “Truth-makers” (1984年)が、過去の哲学とのつながりを強く意識して書かれているという点だ*2。彼らは〈真にするもの〉という考えの源泉を、(『論理的原子論の哲学』の)ラッセル、『論理哲学論考』のウィトゲンシュタイン、そして『論理学研究』のフッサールに求めている*3

この辺の事情については、秋葉本でも、述定的真理を〈真にするもの〉の候補者となる三つの候補者を挙げていく際につけられた注のなかである程度きちんと押さえられている。拙論が好意的に引かれているのでちょっとおもはゆいのだけど、引用しよう。  

興味深いことに、以下で見る三種類の存在者は、どれも一九世紀後半から二〇世紀前半のドイツ・オーストリア哲学(特にF・ブレンターノとE・フッサール周辺)において論じられている。すなわち、事態についてはHusserl (1900/01), Reinach (1911)、トロープ(あるいは少なくともそれと同等のもの)についてはBolzano (1935), Husserl (1900/01: 3rd investigation), Stumpf (1873: 109ff.)で論じられており、《として対象》についてはBrentano (1933)で「付帯者(Akzidens)」の名の下で論じられている(cf. 秋葉 (2006b))。フッサールやライナッハを中心とする初期現象学派における「真理とその存在論的基盤」の問題については、植村(2011)で見通しよく整理されている。(『真理から存在へ』、p. 352、注(5)) 

フッサールの『論理学研究』(引用文中のHusserl (1900/01))に関して、軽く補足しておきたい。フッサールは『論理学研究』第六研究第39節で「真にする事態(wahrmachender Sachverhalt)」という語を使っている(論理学研究 4 』、p. 146。ただしそこでは「立証する事態」と訳されている)。また、同書の第一巻(『純粋論理学へのプロレゴメナ』)では、事態が命題を真にするという考えを表明してうるようにも読める箇所がある(「何ものも、これこれしかじかと規定されることなしには存在しえないのであり、したがって〈それが存在し、これこれしかじかに規定されている〉というこのことは、まさしく存在自体の必然的相関者をなす真理自体である」(論理学研究 1 』、p. 252)。)。これらを踏まえるならば、〈ある命題の真理を真理たらしめるものとしての事態〉という考えは、ここに萌芽的に現われていると言っていいだろう。少なくとも『論理学研究』に大きく影響された初期の実在論的な現象学派には、『論理学研究』からそのような発想を受け取った痕跡がはっきりとある*4。  

というわけで、秋葉さんの言っていることはまったく間違っていない*5。しかし上で引いた注では、〈真にするもの〉としての事態に関して初期現象学が残した議論が持つ、ある側面への言及がまったく抜け落ちてしまっている。それは、彼らが事態を判断という(心的)作用の相関者として扱っているという点だ。簡単に言うと、初期の現象学者たちは、ある命題とそれを真にする事態との関係を、その命題を内容とした判断の志向性に関する議論(つまり、判断の現象学)と関連づけて論じていたのだ。こうした発想は〈真にするもの〉に関する現代の議論にはほとんど見られないため、初期現象学派の議論をユニークなものにしている要因とみなすことができる。

ついでに言っておけば、上で引用した注で述べられていた「トロープ(あるいは少なくともそれと同等のもの)」や「付帯者(Akzidens)」についても、初期現象学における議論は、われわれの体験に関する現象学的分析と無関係ではなかった。たとえばフッサールがトロープ(「契機(Momente)」)について大々的に論じる『論理学研究』の第三研究(翻訳だと論理学研究 3 』に入っている)では、視覚的な経験が持つ特徴に訴える議論が頻出する。このことは、フッサールの議論が下敷きにするシュトゥンプフの考察が視覚的・聴覚的な知覚経験に関する記述的心理学的な探究という文脈に属していたことを考えれば不思議ではない。フッサールにとってのトロープ(ないし契機)とは、まずもって知覚的な経験に登場する個別的な性質のことであって、(可能な)知覚的経験への言及なしに導入されるものではない*6

 

さて、問題は、こうしたユニークさにどういう哲学的な眼目があるのかだ。昔の人たちが〈真にするもの〉の形而上学に志向性という余計なものを持ち込んで問題を無意味に複雑にしていただけだとしたら、初期現象学派のユニークさは歴史的な関心の対象にしかならないだろう。しかし私見では、ここには考慮に値する発想があるように思える。なぜなら、真理の担い手と秋葉さんが見なすものである「命題(propositions)」の存在論的身分を明らかにする際に、判断の志向性に着目する必要が出てくるからだ。

『真理から存在へ』は、命題については必要最小限のことしか語っていない。命題とは何かを説明している箇所をほぼ丸ごと引用しよう。

すでにこれまでの叙述からも明らかなように、この点に関し本書は大部分の論者にしたがい、真偽の担い手は命題という存在者だと仮定する。そして命題の本性については、同じく標準的な見解にしたがいおおよそ次のように仮定する。すなわち命題は、自然言語の平叙文(もちろん異なる言語の文でもよい)を使って表現されうる文の意味内容である。そして、ある文Pを使って表現される命題は、「Pという命題」や「命題P」といった名前で呼ばれることができる。命題は真偽の第一義的な担い手であり、たとえば命題Pを表現する文が真(ないし偽)であるのは、それが表現しているところの命題Pが真(ないし偽)であることによってである。また命題は、信念やその他の心的態度の内容ないし対象となることができる。たとえば命題Pは、Pという信念やPという知識、Pが実現して欲しいという願望といった心的態度の内容ないし対象である。(『真理から存在へ』、pp. 55-56)  

この本は全体としては読者に対する配慮に富んだ本なのだけど(この点は本当に賞讃されるべきだと思う)、命題とは何かについての説明はやや物足りないというか、それが何かについてある程度知らない人にはやや分かりにくい気がする。 

しかし、上の説明からもはっきりと読み取れるように、秋葉さんや標準見解にしたがうならば、命題とは、自然言語の文によって表現され、われわれの心的態度の内容ないし対象となるもののことだ。こうしたものの存在論的身分を明らかにする際に、われわれの心が世界内の何かについてのものであるという特徴、つまり志向性をまったく考慮しないわけにはいかないだろう。われわれの心的態度(の多く、少なくとも命題を内容とするもの)が志向性を持つということは明らかだし、自然言語の文が意味を持ち、何かについて述べることは、われわれの心的態度の志向性から派生した事実であるように見えるからだ。すると、〈真にするもの〉の形而上学を〈真にされるもの〉としての命題も扱うより包括的なものに拡張するためには、志向性の形而上学が欠かせなくなるのではないだろうか。  

 ここまでだと、『真理から存在へ』で論じられていた〈真にするもの〉の形而上学はさらに拡張される必要があり、そのときには秋葉さんが取り上げなかった話題を射程に収める必要がある、という当たり前といえば当たり前の話でしかない。しかし、秋葉さんにとって問題になりそうな懸念もここにはある。というのも、最近のKevin Mulliganが論じたように、〈真にするもの〉とは何かという問題に命題やわれわれの心的態度の志向性に関する考察を関連づけることで、〈真にするもの〉は実は存在論的に基礎的なものではないという主張に余地が生まれるからだ*7。もしこの主張が正しいとしたら、「トロープが存在することを、それが〈真にするもの〉の役割をもっともよく果たすことから論証する」という秋葉本の基本的なアイディアにはけっこう大きな欠陥があることになる。そうやって存在することが擁護されたトロープは、実在の基本的な構成要素であることが保証されないからだ*8

 

こうした懸念に対して秋葉さんがどのように対応するのかが是非知りたいところだ。

*1:もう少しちゃんとした特徴づけについては、秋葉本のpp. 3-4, 49-51あたりを参照。

*2:この論文のpdfは以下から入手できる。http://ontology.buffalo.edu/smith/articles/truthmakers/tm.pdf

ちなみに、〈真にするもの〉としての役割を果たすのはトロープであると考える点で、彼らの立場は秋葉さんと同じだ。『真理から存在へ』p. 49を参照

*3:この本の翻訳は四分冊になっている。『論理学研究 1 』、『論理学研究 2 』、『論理学研究 3 』、『論理学研究 4 』。

*4:この辺については、秋葉本でも言及してもらった拙論、植村玄輝「ライナッハと実在論的現象学の起源:包括的研究への序説」(『現象学年報』第27号、 2011年、63-71頁)で論じたので、興味のある方はぜひどうぞ。現時点では入手が難しいのだけど、たぶん2015年3月末までに電子化されるはず。

*5:というか、『真理から存在へ』の奥付にある著者紹介を見れば分かるように初期現象学は彼の専門の一つだ。そして個人的には、細々とでもいいから今後もブレンターノ研究を続けて欲しい。

*6:といっても、実際にはトロープの導入は、暗黙的にわれわれの知覚経験の事例に訴えることによってなされているような気がする。秋葉本もそうだけど、多くの場合にトロープの例として最初に挙げられるのは色や形のような知覚可能な性質で、しかも「このボールの緑色」といった直示詞を含む表現がその際に使われるので。

*7:Mulliganの議論はいくつかの論文の中に散在しているのでちょっと分かりにくいのだけど、彼のサイトにアップされている”Two Dogmas of Truthmaking”, ”Facts, Formal Object and Ontology”, “Assent, Proposions and Other Formal Objects”, “Intentionality, Knowledge and Formal Objects”, “Truth and the truth-maker principle in 1921”あたりを参照のこと。最後の論文で論じられているように、Mulliganのアイディアの源泉の一つは、初期の現象学者アレクサンダー・プフェンダーだ。

*8:とはいえ、Mulliganの議論が標的としているのは、もっぱら〈真にするもの〉としての事態は存在論的に基礎的であるという考えなので、この辺はもっと慎重に考える必要がある。

現象学を学ぶ人のための現代形而上学・現代形而上学を学ぶ人のための現象学(1)

ワードマップ現代形而上学 』を一通り読了した。

仕事の合間に開いているだけでいつの間にか読み終わってしまう読みやすさは素晴らしい。はやくも重版されたという同書の人気にあやかって、現象学について関心のある人がこの本から先に進むとしたらどんな道があるのかについて、文献情報を少しまとめておこうと思う。

 

『WM現代形而上学』の著者のうち二人は、『現象学年報』にも論文を掲載しているので、(兼業ないし休業中の)現象学研究者だといっていいだろう。実際、その二人のうちの一人は先日「フッサールと現代形而上学」というシンポジウムに登壇した。そのおかげもあってか、同書には現象学の伝統に由来する話題がいくつか登場する。その最たるものは倉田さんが執筆した「存在依存」と「人工物の存在論」の二章だろう。これぞれの章に付せられたコラムでもきちんとフォローされているように、ここではフッサールとインガルデンという現象学者の議論が歴史的な背景として存在する。そして、秋葉さん執筆による二つの章でのトピックにも、フッサールや現象学の伝統からの影響を指摘することができる。「普遍」の章で導入される「トロープ」は、ボルツァーノやブレンターノといった19世紀から20世紀はじめにかけてのオーストリア哲学(追記:ここにあったとんでもないミスを見て卒倒しかけました。なぜ私はカンガルーがいる方を…)(少なくとも初期のフッサールはこの伝統に連なる)で盛んに扱われた存在者のカテゴリーだ。また、「個物」の章で取り上げられるトロープの束説のうち、トロープ束を中心部と周辺に分けるというサイモンズの戦略は、フッサールの『論理学研究』第三研究に着想を得たものだ。このことは、トロープに関する議論がフッサール周辺で盛んになされていたという点も含め、サイモンズ自身の論文(『現代形而上学論文集 』所収)でははっきりと述べられている。(「註という便利で楽しいもの」(アームストロング『現代普遍論争入門 』、秋葉剛史訳、春秋社、2012年、「訳者あとがき」より)の愛好者が書いた章にこれらの指摘が抜け落ちているというのは、『WM現代形而上学』が全体の有機的なつながりをあきらかに強く意識して書かれているという事実を踏まえると少し不思議な話だ。)

 

この辺を踏まえつつ、まずは、倉田さんが「フッサールと存在依存」(p. 207)で言及するB・スミスの編著『部分とモメント(Parts and Moments )』とその周辺について(ちなみに「モメント」はフッサールによる個別的な性質つまりトロープの呼び名で、「契機」と訳されることもある)。マーケットプレイスでは恐ろしい値段がついているが、太っ腹なことに全文のPDFが無料で公開されている。もう20年以上も前の古い本だとはいえ、マリガンとスミスによる長大なイントロダクションや巻末に付せられた詳細なコメント付き文献表の情報量は、トロープや存在依存についての議論の歴史を追いたい人には今でも有益だ。というか、情報量に関してはこれを超えるものは今後も滅多なことでは出てこない気がする。日本語で読める関連文献としては、どれも雑誌論文になってしまうのだが、ネットで無料で読めるものとしては

がある。その他の雑誌論文を挙げておくと、

  • 倉田剛「非独立性あるいは依存という概念について--『論理学研究』第三研究の意義と射程」
  • 倉田剛「フッサールの全体-部分理論について」
  • 齋藤暢人「全体と部分の現象学--メレオロジーとフッサール」

など(検索すれば詳しいことは分かるはずなので書誌情報は省略)。あと、(ようやく電子化されるらしい) 『現象学年報』が2007年に「現代のオントロジーと現象学」という特集を組んでいて、倉田・齋藤両氏はそこにも寄稿している。 存在依存についてもう少し。インガルデンの大著『世界の存在をめぐる論争』(倉田さんの訳だと『世界の存在をめぐる争い(Der Streit um die Existenz der Welt)』)は、全部で1000頁を超えるうえにドイツ語(もしくはポーランド語)で書かれているため、なかなかアクセスしにくい。しかし、存在依存を扱った第一巻については、だいぶ前から英訳があり、しかも最近になって(ポーランド語版からの)新訳まで出てている。英語が苦手ではない人は、淡々と細かい区別を導入する同書に挑戦してみてもいいと思う。手引きとしては、次の本に入っているサイモンズの論文がとても役立つだろう。

ちなみに次の論文の巻末には、インガルデンが四種類の存在依存の組み合わせでカテゴリーをどう分けたのかを図解した、サイモンズのイラストが載っている。

インガルデン自身の著作といえば、倉田さんは『音楽作品とその同一性の問題』をお薦めしている(残念なことに品切れのようだ)。分量や内容を考えても、インガルデンに興味があるならこの本から始めるのがいいというのはもっともな話だ。しかし、その際に一緒に言及される『文学的芸術作品 』にも翻訳があることには触れて欲しかった。この本はかなりハード(翻訳の文体もちょっと硬い)で読みこなすのはなかなか大変だけど、『音楽作品』でも登場する基本的な概念がより詳しく扱われている。個人的には、学部から修士課程のころに『文学的芸術作品』の翻訳に出会っていたというのは大きく、あれがなかったら今やっている研究の内容は少し違うかものになっていたかもしれないので、こちらに挑戦する人がもっと増えるととても嬉しい。

 

とはいえ、私は自分を数少ない(はずの)日本のインガルデン研究者の一人だと思っているけど、今のところインガルデンの芸術作品論についてきちんとした研究をしているわけではない(そのうちやりたいと思っているし、そういうお誘いがあれば乗っかりたいとも思っている)。そんなお前にとってなぜ『文学的芸術作品』との出会いが大きかったのかと訝しがる人もいるかもしれない。インガルデンのこの本は、文学作品を扱う際に、われわれの経験の志向性やその対象(志向的対象)についての詳細な議論を行っていて、私はどちらかというとそちらに感銘を受けたのだった。志向的対象については、拙論のほか、倉田さんによる「志向的対象を再考する」論文が『志向性と因果 (哲学雑誌 第 126巻第798号) 』に載っている。

 

個人的な話を続けると、インガルデンへの関心を持つきっかけとして、フルヅィムスキの論文「現象学的な意味の理論:ブレンターノからインガルデンまで」をそれが出た直後に読んでいろいろ目から鱗が落ちたという出来事も大きかった。この論文は、志向性の形而上学とでも言うべき観点から(初期・中期)ブレンターノ、トヴァルドフスキ、マイノング、(初期・中期・後期)フッサール、インガルデンの志向性理論をコンパクトに整理しつつ「言語とその意味」という問題に即してそれらを考察したもので、『現代思想2009年12月臨時増刊号 総特集=フッサール 現象学の深化と拡張』で翻訳もされている(というか自分で翻訳した)。ちなみに齋藤さんの上で言及した論文も、この号に入っているものだ。フルヅィムスキはこれまでに五冊の著作(うち一つ)を出していて、どれも高額なうえにドイツ語なのでなかなかアクセスしにくいけれども、存在論的・形而上学的な観点からの現象学研究に関心のある人はどれも読んで損がないはずだ。というわけで以下に並べておこう。

とりあえず第一回はこの辺で終わり。次は、第八章で倉田さんが依拠しているトマソンあたりからはじめて、形而上学に対する現象学的なアプローチについて書こうと思う。