研究日誌

哲学と哲学史を研究している人の記録

2023年に出版された仕事

今年は前半にどかっと出て、最終版提出済み出版待ちのものがだいぶなくなった。貯金が尽きたようなものだ。来年以降の出版のペースはおそらく落ちるはず。自分の仕事をこの文体で紹介するのが難しかったのでここから調子変えます。

 

Uemura, G. (2023). Between Love and Benevolence. Voigtländer, Pfänder, and Walther on the Phenomenology of Sentiments. In: Vendrell Ferran, Í. (eds) Else Voigtländer: Self, Emotion, and Sociality. Women in the History of Philosophy and Sciences, vol 17. Springer, Cham. https://doi.org/10.1007/978-3-031-18761-2_4

初期現象学(ミュンヘン系)に関する論文。エルゼ・フォークトレンダーの心情論について、それがアレクサンダー・プフェンダーの心情論に何をどれくらい負っていたのか、その新しさはどこにあったのかを明らかにすることを目指しました。フォークトレンダーは師の一人だったプフェンダーの基本的な発想を正確に理解して踏襲したうえで、「好意(Wohlwollen/benevolence)」と呼ばれる心情については、プフェンダーの見解に反対するような議論を展開している——というのがメインの主張です。具体的な作業としては、プフェンダーに献呈された1933年の論文「心情の心理学についての所見」の前半部分を取り上げ、フォークトレンダーがそこでプフェンダーの『心情の心理学』(1913/1916年)のどの箇所を参照しているのかをなるべく正確に突き止めつつ、この一致を背景にしてはじめて浮き上がる両者の見解の相違を取り出すといった感じのことをしています。また、好意に関するフォークトレンダーの議論が同じくプフェンダーの学生だったゲルダ・ヴァルターの立場への批判にもなっている——ただしフォークトレンダー自身がこの批判を意図していたかはわからない——ということも論じました。私のこれまでのキャリアでもっともマニアックなテーマですが、うまく書けたと思っている部分がいくつかあり、たいへん気に入っています(ただしタイプセッティングのミスでブロック引用がすべて段落として処理されていて、そこは気に入っていません)。

 

Uemura, Genki, 'Phenomenology in Japan: A Brief History with a Focus on Its Reception in Applied Areas', in François-Xavier de Vaujany, Jeremy Aroles, and Mar Pérezts (eds), The Oxford Handbook of Phenomenologies and Organization Studies, Oxford University Press, 2023. https://doi.org/10.1093/oxfordhb/9780192865755.013.30

日本における現象学受容を、狭い意味での哲学の外にある「応用的な」分野での受容にとりわけ着目しながら振り返る論文です。1910年代から2000年くらいまで扱っていますが、戦後の話はほとんどおまけみたいなもので、重点は戦前に置かれています。この手の話題を扱った先行研究はかなりの量読んだはずですが、そのどれとも違う内容になっていると思います。1920年代の日本の教育学や社会学における現象学への注目の高まりについてある程度まとまったことを(英語で)書いた論文は貴重なはずです。準備の過程で仕込んだネタがたくさん余っているので今後の研究にも活かされることでしょう。大変だったけどやってよかった。

 

Uemura G. (2023). Community and the Absence of Hostility: Interpretation and Defense of Gerda Walther’s Account. Phainomenon, Vol.35 (Issue 1), pp. 25-46. https://doi.org/10.2478/phainomenon-2023-0003

初期現象学(ミュンヘン系)に関する論文がもうひとつ。こちらはゲルダ・ヴァルターに関するもの。ヴァルターの共同体論を解釈して擁護するという趣旨の論文で、具体的には、「共同体は成員のあいだの敵対が取り除かれたところに成立する(大意)」というヴァルターの主張の内実を理解可能にすることを目指しています。そのための手がかりとして、アーロン・グールヴィッチがヴァルターに寄せた批判(をさらに展開させたもの)を取り上げ、それに応答することを試みました。結論を簡単にいうと、「ヴァルターだって共同体の内部で不和や敵対が生じうることくらい当然認めているよ。このことと問題の主張がどう両立するのかは、真正/非真正(echt/unecht)な経験に関するヴァルターの議論を参照すれば分かるよ」という感じになります。これもいまのところ結構気に入っている。オープンアクセス。

 

植村玄輝,「像はどのようにあらわれるのか——フッサールの像意識論を解釈して擁護する」,荒畑靖宏・吉川孝編『あらわれを哲学する』,晃洋書房,2023年,85–100頁。

こちらも解釈して擁護する論文。像意識(いまでいう画像知覚)に関するフッサールの議論に登場する「像客体」とは何かを明らかにしたうえで、それをいわば第3のものとして、物的な像ないし像物体(画像知覚において知覚される物体、たとえばキャンヴァス)と像主題(画像において描かれるもの、たとえば肖像画を注文した実在の人物)に加えて認めることはそんなに奇妙な発想ではないということを論じました。私がフッサールについて書くと人があまり現象学っぽいと思わないものができあがる傾向があるのですが、これはがっつり現象学の話をしていると思います。しかしフッサール研究の成果というよりも、自分の基準では現代現象学に分類される仕事だという気もします。少なくとも、この話の続きをやるときにはもはやフッサール解釈という手続きはとらないはず。

 

植村玄輝,「コンラート=マルティウスの現象学的実在論」,『プロセス思想』第22号(2022),2023年,49–63頁。https://doi.org/10.32242/processthought.22.0_49

初期現象学(ミュンヘン系)に関する論文がさらにひとつ。一昨年に行われた日本ホワイトヘッド協会シンポジウムでの提題(および、過去5年くらいにさまざまなところでやってきた発表)にもとづくものです。ヘートヴィヒ・コンラート=マルティウスの1916年の論考「レアルな外界の現出論と存在論」から実在論を擁護する現象学的な論証を再構成するものなんですが、とにかく難解な文献なので苦労しました。コンラート=マルティウスの議論の要点は体験の身体性に着目するというところにあり、それだけだとまあよくある話といえなくもないんですが、そこからさらに一歩踏み込んで触覚的な注意を議論に絡めてくるあたりはかなり面白いしオリジナルだと思います。オープンアクセス。

 

植村玄輝,「フッサールの価値論——ブレンターノの継承と批判という観点から」,『20世紀初頭価値哲学の反自然主義——現代価値論の再考のために』,2023年,19–33頁。

ゲッティンゲン時代のフッサールの価値論をブレンターノとの比較という観点から整理した論文です。フッサール研究者なら常識的に知っていてもいいような話題が中心なのでフッサール研究的には特に新しくないです。しかし、狭い業界外にはあまり知られていない話をコンパクトにまとめたものとしては悪くないと思います。こちらの科研費プロジェクトの報告書に寄せたものなので入手がやや難しいのが残念です。しかしそのうちネットで無料で公開されるんじゃないかと思います。されなかったら私の方でなんとかします。

客観的であることと主観的であることを対比したくなる気持ちに水を差すウィギンズの所見

折りに触れて読み返したいし、いろんな人に読んで欲しいのでここに引用しておこう。

〔…〕客観性と非客観性との区別(こちらの区別は、公共的に認められ合理的に批評可能な議論の水準が存在することや、真理を目指す推論が存在することと関係があるように見える)が、人間中心的なものと非人間中心的なものとの区別(この区別は、人間的な関心や人間的な観点に向かう方向性にかかわる)と一致するはずだという考えは、見たところもっともらしくない。これらの区別に概念的な結びつきがないわけではないが、人間中心的であるような事柄は明らかに、より客観的であるか、より客観的でないか、あるいは(極端な場合は)単に主観的であるか、そのいずれでもありうるような外観を呈している。人間中心的/非人間中心的という区別、非客観的/客観的という区別、それから、主観的/非主観的という区別、この三つのそれぞれもっともらしい独立の説明が相互に一致していることを厳密に証明するような議論をわれわれが手にするまで、こうした外観は変わらないだろう*1

この箇所に付いている注でもウィギンズはいいことを言っている。

「この周辺にある他の全ての区別についても、同様の考察が加えられる必要がある。——中立的であることとコミットしていること、中立的であることとバイアスが掛かっていること、記述的と指令的、記述的と評価的、定量化できることとできないこと、絶対的と相対的、科学的と非科学的、本質的に争われないことと争われること、検証ないし反証が可能なこととどちらも不可能なこと、事実的と規範的……。通俗的に、あるいは社会学や経済学においては——さらには、より深く理解しているべき政治学においても——これらの区別はほぼ交換可能なものとして使用されている。しかし、これらの区別は互いに異なるものである。これらの対比はそれぞれ独自の原理をもっているのである。それをすべて説明することは、哲学だけでなく人生に対する貢献となるだろう*2

私もそのうちこの件に関連して人生へのささやかな貢献をしたい。

 

*1:デイヴィッド・ウィギンズ、「真理、発明、人生の意味」、『ニーズ・価値・真理——ウィギンズ倫理学論文集』勁草書房、2014年 、164–165頁。

*2:ウィギンズ、「真理、発明、人生の意味」、217頁注12。

哲学史研究と哲学をすることの関係についてのグライスの「ファンタジー」

先日勤務先で一般向けの講座を行う機会を得て、「哲学と哲学史——両者は切り離せないのか」という内容で話をした。下記の記事からはじまる当ブログの一連のSauer論文記事を本題としてその前後に前置きと展望を挟むという感じの構成で、どちらかといえば利他的な動機に基づいて書いたものが結果として自分を助けてくれたかたちになった。やはり、思いついたことは(それを公開するかどうかはまた別の問題だが)とりあえず書いておくべきである。

uemurag.hatenablog.jp

 

今回の講座を準備するにあたっては、過去の自分に助けられたことがまだある。主要部分に先立つ前置きで哲学史と哲学の関係をめぐるさまざまな見解を引用して紹介したのだが、その少なくない部分は、2017年の日本哲学会大会シンポジウムでの発表とそれに先立って出版された論文*1のために準備したもののさまざまな事情で使わなかったものだった。そのなかでも今回読み直して面白かったものをここにも引用しておこう。以下は、ポール・グライスが哲学史を研究することと哲学をすることの関係について語っている箇所だ*2

オックスフォードの哲学チューターであり、レポートのための課題を設定する際の学生への指示として、プラトンやアリストテレスからの一節と最近の哲学雑誌に収められた論文を読むようにすることに慣れている人なら誰でも、何世紀にもわたる話題が沢山あることをよく知っている。そして、〔こうした人たちにとって〕ほとんど劣らず明らかなのは、実質的に似通った立場がまったく異なる時代に提出されるということである。また、それを知ることができる立場にある人たちが確かなこととして私に保証してくれたのだが、ある哲学文化と別の哲学文化、たとえば西ヨーロッパ哲学とインド哲学を隔てる障壁を越えても、ある程度は同じような対応関係を見出すことができるそうである。こうした平凡な事柄に、さらなる平凡な事柄として、哲学において永続的な名声を勝ち得た人たちは卓越した哲学的な功績の結果としてそうなったのだということを付け加えてみよう。すると、私たちがたどり着く結論は、自分自身の哲学的問題を解決しようとするときに、私たちは、輝かしい死者たちが提供したかもしれない貢献を何であれ適切に考慮すべきであるというものである。「適切な考慮」と言うときに〔…〕私が意味しているのは、私たちは偉大だが死んでしまった人たちを、あたかも彼らが偉大であり生きているかのように、いま私たちに何かを語りかけてくれる人たちであるかのように扱わなければならないということである。〔…〕/哲学を否定したい人たちが事実と称されるものとしてよく指摘するのは、哲学の大問題が2500年以上にわたって私たちの頭を悩ませてきたにもかかわらず、ひとつも解決されたことがないということである。ある哲学の問題を誰かが解決したと主張すると、すぐにほかの誰かがそれを未解決に戻してしまう。私の想像では、私たちに対するこうした非難は思いっきり的を外している。実際には、多くの哲学的な問題が(多かれ少なかれ)何度も解決されているのである。そのようには見えないということが何によるのかといえば、それは、ある語彙から別の語彙へと移ることがたいへん難しく、そのため問題の同一性がぼやけてしまうという事情によるのである。解決は、私たちが主題とする事柄に関する〔過去の〕記録に刻まれている。ただここで行う必要があり、しかもそうするのがとても難しいのは、その記録を正しく読むことである。さて、こうした想像には、実際には根拠がないかもしれない。しかし、この想像を信じた結果として〔根拠のあることだけ信じることに〕失敗することは、よい哲学につながることがおおいにありそうだし、一見するかぎり、何の害も与えることがない。それに対して、この想像を拒否することで〔よい哲学をすることに〕失敗することは、人を哲学的な災害に巻き込むことになるかもしれない。*3

ここでグライスが「想像(fantasy)」として語っているアイディアは、上記リンク先の記事で紹介したSauer論文でターゲットとしている研究実践のひとつと言えるだろう。というのもグライスはここで、哲学にとって哲学史はよい方法であるということを、哲学の歴史をつうじて同じ問題が繰り返し取り上げられている(そしてその問題に対する解決は多かれ少なかれ過去に与えられている)という事情を背景にして語っているからだ。

*1:この論文は以下のリンク先から無料でダウンロードできる。https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy/2017/68/2017_28/_article/-char/ja/

*2:日本語に直すのが異様に難しい英語だったので箇所によっては結構な意訳をしている。また、長いので要点だけをはっきりさせるために真ん中をかなりたくさん略した。ちなみに割愛された箇所には、「マイナー哲学者、たとえばウォラストンとかボサンケとかウィトゲンシュタインとか」というわりと有名な問題(?)発言が登場する。

*3:Paul Grice, "Reply to Richards." In Philosophical Grounds of Rationality, R. E. Grandy & R. Warner (eds.), Clarendon Press, 1986, 65–67.

戦前にはほぼ無視されたフッサールの「『改造』論文」

1923年から1924年にかけて、フッサールは日本の総合誌『改造』に3篇の論考を寄稿した。当時いろいろあって未刊行に終わった残り2篇とあわせて「『改造』論文」とも呼ばれるこの連続論文は、1989年に『フッサール全集』(Husserliana)第27巻として出版されるまで、世界中のほとんどの人にとって読むことが難しい文献だった。そもそも『改造』にアクセスすることが日本以外の国では簡単ではないだろう。それに加えて、第1論文「革新:その問題と方法」(1923年)こそ日独両言語で誌面に載ったものの、第2・第3論文は日本語訳だけの掲載だったのである。つまり、当時の日本の人々はフッサールの「『改造』論文」をいちはやく読むことができる例外的な立場にいたということでもある。

だが、どうやらこの論文は戦前の日本でほとんど何の反響も引き起こすことなくスルーされたようである。というのも、「『改造』論文」に言及した戦前日本の文献がほとんど見つからないからだ。

私の調査の及ぶ範囲では、「『改造』論文」への言及が確認できる戦前日本の文献はひとつしかない。三井甲之の「現代国民思想の趨向と学術革命」という講演録(1923年)がそれだ*1。だが、三井はこの講演のなかで「『改造』論文」に軽く触れるだけで、その内容を論じているわけではない。当該箇所を引用しよう。

雑誌の「改造」に大変大きな広告などしてアインシュタイン初めフッサール、リッケルトとか云う者の論文が沢山載せてあります。けれ共、私共は余り感心致しませぬ。*2

たったこれだけ。というわけで、フッサールの「『改造』論文」は戦前の日本ではほぼ無視されたといってもいいだろう。

この無視をどうやって評価すればいいのかという問題は難しい。『改造』に寄せられた外国の論者たちの記事が総じてどれくらいの反響を引き起こしていたのかがはっきりしないかぎり、フッサールの事例がよくある話だったのか例外的な出来事だったのかはわからない。とはいえ、フッサールの「『改造』論文」がほぼ無視されたのはなぜかということについて、私たちはいくつかの推測をすることができるし、そこには興味深い論点も含まれている——という話を、もうすぐ岡山で開催される「『改造』論文」100周年記念学会で八重樫徹さんと共同でします。

*1:三井甲之という人物を私は知らなかったのだが、ウィキペディアのエントリーによると、あの蓑田胸喜と一緒に原理日本社を立ち上げた歌人らしい。

*2:三井甲之「現代国民思想の趨向と学術革命」『国学院雑誌』第9巻第8号、大正12年、574頁、旧字をあらためた。ちなみにこの記事は国会図書館の個人送信サービスで読める。https://dl.ndl.go.jp/pid/3364991/1/3

富山豊『フッサール 志向性の哲学』のあとに読むといいかもしれない文献

ひとつまえのエントリの補足。富山豊『フッサール 志向性の哲学』には簡潔で要を得た読書案内がついているのだけど、そこで紹介されていないおすすめの文献をふたつ紹介しておこう。


(1)富山本の177–184ページでも論じられているフッサールの「充実」概念については、ジョスラン・ブノワの次の論文を読むと面白いだろう。簡単なものではないけど、富山本を読んだあとなら取り組めるための基本的な準備はできているはず。

 

(2)富山本はフッサール入門書であると同時に言語の意味とは何かという問題に取り組む本でもあるわけだけど、この問題についてフッサールがどのような立場をとっていたのかについては、アルカディウス・フルヅィムスキの以下の論文もある。富山本との違いについて考えてみると面白いと思う。

どちらの論文も2009年の末に出た『現代思想』のフッサール特集に掲載されている。この号にはフッサールの価値論・倫理学に関連するテクストの翻訳も入っているので手に入れておいて損はない。

フッサールにたどりつくために——富山豊『フッサール 志向性の哲学』(青土社、2023年)

フッサール 志向性の哲学』(青土社、2023年)を、著者の富山豊さんからお送りいただいた。待望の単著といっていいだろう。志向性に関するフッサールの見解について私が論じる次の機会——万事が順調に進めば今年の5月後半には最初の機会がやってくる——に本書を詳しく検討しなければならないことははっきりしているので、まずはざっと一周読んだ。読む前から分かっていたことではあったが、期待させるだけ期待させておいて……ということにはまったくならなかった。待ち望んだ甲斐があった。以下に簡単な感想を記しておく。同書のページ数への参照はアラビア数字だけで行う。

本書はフッサールに関する入門書だが、私の知るかぎり、他のどの類書とも異なっている。ある哲学者についての入門書というものは、その哲学者の思想の全体像を示すのを目的にするのが通例である。それに対して本書は、フッサール現象学の全体像を包括的に示すわけではない。むしろ本書は、フッサール現象学のもっとも中心的な概念のひとつである志向性について、その他の入門書や概説書が場合によっては一章(あるいは一節)ですませてしまいがちな基礎の基礎をじっくりと論じることを選んでいる。著者自身が序章で述べているように、本書は「フッサールにたどりつくまで」をサポートすることを目的とするのである(23)。

ではフッサール現象学の「基礎の基礎」とはなんだろうか。一言でいってしませば、それは「意識は志向性によって世界へと開かれている」というアイディアだ。このアイディアがより正確にはどのようなものであり、それにどのような根拠が与えられるのかを、富山はフッサールの初期の著作『論理学研究』に焦点を定めて、とにかく丁寧に論じている。丁寧に手ほどきをしてくれる哲学入門書はいまや珍しくないが、それでもこの丁寧さは特筆に値する。これ以上丁寧に書くことは至難の業だといっていいだろう。どれくらい丁寧かというと、哲学書の翻訳では(原語の)複数形を表現するために「諸○○」という言い方がされるという注意書きが記されているほどだ(194)*1

フッサールの志向性概念に関する本書の議論の特徴は、なんといっても、思考という経験のあり方に重点を置いて進められている点にあるだろう。ここでの「思考」はかなり広いいみで特徴づけられており、何かを思い浮かべたり推測したりすることだけでなく、願望や喜怒哀楽のような感情や知覚も思考に含まれる(28–29)。とはいえ、著者が論じる思考の典型は判断だ。(典型的には)真偽を問える文によって表される何かについて、それが成り立っている(あるいは真である)とみなすとき、私たちはどのような経験を持っているのか——本書は、この問いに対するフッサールの回答を、フレーゲとダメットのフレーゲ解釈を大々的に参照しながら再構成する。

フッサールについてある程度のことを知っている人ならば、判断に論点を絞ることの眼目はよくわかるだろう。フッサールは志向性を論じるにあたって、それが「意味を介して」対象に向かう意識の特徴であると述べることがよくある。この発想の内実と意義をはっきりさせるためには、『論理学研究』においてフッサールが意味を判断(あるいは「言表(Aussage)」)とどうやって関連づけたかを突き止めなければならない。こうした事情を背景にするとよくわかるのだが、本書の戦略はフッサール研究における定石をきちんと踏まえている。

その一方で、本書は研究史を踏まえても特筆すべきフッサール解釈を提出しているか、少なくともそうした解釈を提出しつつある。フッサールをフレーゲと並べて読むというアプローチそのものは特に新しいものではない。このアプローチには、フェレスダールの論文「フッサールのノエマ概念」(1968年)*2にまで遡ることできる半世紀以上の歴史がある。しかし本書の立場は、フェレスダール論文に始まるフッサール解釈の伝統(いわゆる「西海岸学派」)とは明確に異なる。フェレスダールのようにフッサールが『イデーンI』で導入したノエマをフレーゲの意義(Sinn)に相当するものとみなすのではなく、富山は、『論理学研究』から「対象の探索の手続きとしての意味」という発想を取り出し、それをダメットが再構成したフレーゲの立場に結びつけるのである。違いはこれにとどまらない(かもしれない)。終章で展望として示されるように、本書の解釈の延長線上にあるノエマ解釈は、ノエマを対象から区別された意味とみなす解釈——富山は明言しないが、これはフェレスダールのフレーゲ的なノエマ解釈の要点である——とは真っ向から対立するのである(260)。本書の趣旨からすると仕方のないことではあるが、この論点を含む終章は全般的に話がやや駆け足気味になってしまっている。終章で示されたフッサール解釈の大枠に沿って超越論的現象学のさらなる内実に踏み込むことが、本書に続く著者の仕事ということになるのだろう。多いに期待して待ちたい。

最後に、本書に関して覚えた疑問を簡単に記しておきたい。著者はフッサールの志向性理論を、実質的にはほぼ判断に話を限って再構成している。それに比べると、著者が「思考」のうちに数え入れた知覚についての本書の議論は、やや限定的だといわざるをえない。もちろん本書でも、フッサール現象学において知覚が果たす重要な役割は論じられている。そのことは、知覚をはじめとした直観による判断の確証ないし充実に関する本書の議論をみればあきらかだろう(177–184)*3。だが、知覚もまた志向性を持つというフッサールの発想を、本書は正面から論じているわけではない。そして、本書の基本的な立場は、知覚の志向性に関するフッサールの見解を論じるにあたって、一筋縄では行かない問題に直面するはずである。フッサールは知覚の志向性についても、「意味を介して対象にかかわる」という図式を用いて論じることが多い(たとえば、「知覚意味(Wahrnehmungssinn)」に関する『イデーンI』の議論を参照)。この文脈での意味を、「意味とは対象を探索する手続きである」という発想にしたがって理解することは果たしてできるのだろうか。何かを知覚するとき、私たちはその何かの探索をひとまず終えてしまっているはずである。たとえば、自分のスマートフォンの探索は、探しているそれが棚の上にあるのを私が見たときにひとまず終わるはずである。知覚の志向性、たとえば私の知覚経験がスマートフォンについてのものであることを富山が示した路線のもとで論じるためには、相応の工夫が必要になるはずである。このあたりの問題を著者はすでに把握しているはずなので、やがて出てくるであろう仕事を楽しみに待ちたい。

最後に懸念のようなものを表明してしまったが、これは本書の価値を低く見積もるためのものではない。『フッサール 志向性の哲学』は、フッサール入門のための最良の一冊であると同時に、志向性について論じるフッサール研究者ひいては現象学研究者が避けて通ることができない著作として今後頻繁に参照されることになるはずだ。

*1:本書には注がないため、こうした注意書きや但し書きが本文中の随所で(ときに括弧のなかに入れられて)登場する。著者というよりは出版社の意向によるところが大きいと推察されるこうした形式そのものには賛否の両方があるはずだ。しかし本書に関していえば、このやり方はおおむねうまくいっているように思われる。いちいち注を確認する、あるいは、まずは注をざっと読んで小ネタがちりばめられていないか探すという本の読み方をする人だけが世の中を作り上げているわけではない。読者がつまずきがちな箇所で先回りのフォローをするにしても、それが注に書かれていると読まれなかったりすることも(私の経験の範囲内ではけっこう)ある。ならば、注を排するというのはひとつのいいやり方だろう。そして本書については、注意書きや但し書きが本文に挿入されていることで可読性が下がっているという印象は受けなかった。ちなみに私は注の愛好家なので、注なしという形式を採用するためにはいくつかの心理的障壁を乗り越える必要が出てくると思う。

*2:https://www.jstor.org/stable/2024451

*3:本書の索引に「直観」と「充実」がなかったのはいささか残念である。

アメリカ哲学における現象学とその不在の歴史

年末年始の読書は10月に出たJonathan Strassfeld, Inventing Philosophy’s OtherPhenomenology in America (University of Chicago Press, 2022)に決めた。

アメリカの哲学メインストリームにおける現象学とその不在という主題をめぐって、ふたつのパートに分けてもいいような章をあえて交互に登場させるという凝った構成になっている。一方のアラビア数字が振られた章では、第一次大戦前からはじまるアメリカにおける現象学受容や、戦間期・戦後のアメリカ哲学を取り巻く制度的な事柄の歴史が辿り直される*1。もう一方のアルファベットが振られた章では、アメリカにおける現象学の発展を担った4人の人物(Marjorie Grene、Alfred Schütz、Hubert Dreyfus、Iris Marion Young)の思想と人生が再構成される。

この構成にどういう意義があるのかについては最後まで読まないと判断できないけど、Chapter 3まで読んだ印象としては、読み手を飽きさせないという利点は間違いなくあると思う。

*1:ただしChapter 1は除く。現象学入門といった趣のこの章では、フッサール、ハイデガー、サルトル、メルロ=ポンティの基本的な考えが現象学に馴染みのない読者も念頭において紹介される。現象学についてある程度知っているという人は、ここは飛ばしてもいいと思う。私は、フッサールに関する最初の節を読んでいて細かいところでいろいろ気になってしまったので、かなり雑な斜め読みで済ませてしまった。