研究日誌

哲学と哲学史を研究している人の記録

ゲルダ・ヴァルターの共同体論

 

 

前回の続きといえなくもない話。せっかくなので、ヴァルターが自分の論考のなかでウェーバーに触れている箇所も紹介しておきましょう。以下は、1923年にフッサールの『現象学年報』に掲載された「共同体の存在論について」の一節で、初期現象学の研究者の(狭い)世界では割と知られている箇所です。

たとえば、無差別に集められた多数の労働者——スロヴァキア人、ポーランド人、 イタリア人など——が、ひとつの建築物を作っているとしよう。彼らは互いの言語を理解せず、互いに面識を持たず、以前に一緒に何かをしたことがあるわけでもない。彼らはただ生計を立てるために稼ぎを得ており、その際たまたま同じ建築会社に雇われた。さて、彼らはたとえば壁を築く。何人かはレンガをとってきて、何人かはそのレンガを他の人に渡していき、最後には壁職人の手に渡る。壁職人はモルタルをレンガに塗りつけて積み上げる〔......〕。もしかすると、この労働者たちはその建築物を作っているあいだ、一緒に料理をして暮らしている。さて、彼らはひとつの共同体を作り上げるのだろうか。外側から見ると、そう見えることは十分ありうる。そう、 ここには多くの人間がおり、彼らは互いを知っており、行動に際して相互作用のうちで互いと向き合っている。これによって、たとえばマックス・ウェーバーが「共同体行為」と呼ぶものが与えられるだろう。さらには、彼らは自分達の心的生のある層において、ひとつの目的統一のもとで等しい志向的対象——レンガ、壁、建築物の全体——に向かっている。ここからは、ひとつの目的統一に貫かれた、部分的に同種の心的精神的生が帰結する。その目的統一は、ある等しい志向的対象(建築物、そしてそれを建てることによって自分の日々の糧を得ること)によって規制されているのである。こうしたことのすべてが成り立っており、労働者たちはそのことを知っている。さて、ここで私たちはひとつの共同体を手にしているのだろうか*1

ヴァルターによれば、ここで例に挙げられた労働者たちは共同体(Gemeinschaft)を作り上げていません。というのも、ヴァルターによれば、労働者たちの集まりにはある重要なものが欠けているからです。それが何かは、少し後の箇所を読むとわかります。

内的なよそよそしさやどうでもよさ、そしてもちろん敵意の代わりに、その他すべての規定に加えて、どんな種類のものであれなんらかの内的な結束(Verbundenheit)が付け加わったときに——どれほど緩やかでも、どれほど範囲が狭くても、そうした結合があの建築物のための労働に際して一緒に生きることの方に広がり、この建築物と同じくらい持続しさえすれば——、私たちは共同体を目の前にするのではないだろうか。/ここで——そしてここではじめて——実際の共同体が現れるように私たちには思われる。内的な結束、あの一緒に属している感じ——たとえどれほど緩やかで限定的だろうとも——によってはじめて、社会的形成体は共同体に急変するのである。こうしたメルクマールが欠けているかぎり、私たちはすべての社会的形成体を、マックス・ウェーバーの意味での団体(Verband)やアンシュタルト等々だろうとも、利益社会的な形成体という集合概念のうちに組み入れるだろう。〔......〕私たちはここで、共同体の本質的なメルクマールを「あの一緒に属している感じ」、あの内的合一のうちに見てとるような学者(二人だけ名指しておけば、フェルディナント・テンニースやギディングス)の立場に立つ。私たちの見解では、成員とのそのような内的合一を示す社会的形成体はすべて共同体であり、厳密に受け止めるならば、こうした共同体のもとでのみ、共同の体験・行為・目標を持つこと・努力・意志・願望などの言い方ができるのである(これらには、等しいあるいは似通った経験や行為などが対置され、こちらは場合によっては利益社会的な結合のもとにもありうる)。そのため、すべての社会的結合がそのような一緒に属している感じを、そのような内的結束を示すわけではない*2

ヴァルターによれば、共同体(Gemeinschaft)は、「一緒に属している感じ(Gefühl der Zusammengehörigkeit)」や「内的合一(innere Einigung)」と呼ばれるある種の情動によって成り立つというわけです。こうした議論についてもっと詳しく知りたければ、まずは以下の論文を読むのがいいでしょう。

  • 横山陸、「ゲルダ・ヴァルターの共同体の現象学——ヴァルターによる内的合一と共同体体験の分析について」、『現象学と社会科学』、第3号、2020年、34–47頁。

 

おまけ。これは推測にすぎませんが、ヴァルターの「Gefühl der Zusammengehörigkeit(一緒に属している感じ)」という用語は、上の引用で名指されるギディングスの「consciousness of kind(同類意識)」の独訳「Bewußtsein der Zusammengehörigkeit」から着想を得たものかもしれません*3。そうだとすると、「Gefühl der Zusammengehörigkeit」は「同類感」と訳すのがいいということになるかもしれません。

ヴァルターの共同体論は英訳が準備中です。記憶違いでなければ今年の秋に出るという話だったはずなんですが来年に延期されたようです。

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*1:Gerda Walther, ”Zur Ontologie der sozialen Gemeinschaften”, in E. Husserl (ed.), Jahrbuch für Phänomenologie und phänomenologische Forschung, vol. 6, pp. 1–138 (here, pp. 30–31).

*2:Gerda Walther, ”Zur Ontologie der sozialen Gemeinschaften”, p. 33. 強調は引用者による。

*3:この訳語については、上の引用中でヴァルターが参照を振っているこの本のVorwortの1ページ目(IIIページ)で確認できます。