ヴァルターの自伝には、彼女が大学に入学された数少ない女性だったことに起因するトラブルに関する記述もある。以下はそのうちのひとつ。
ある日フッサールは、私たち全員を講演に招待してくれた。その講演は、フッサールが自分の前任者だったリッカート教授によってたぶん創設されたフライブルク文化哲学協会で行うものだった。すぐあとに、フッサールはいくらかばつが悪そうに、女子学生たちに、自分もあとからはじめて知ったのだといってこう告げた。女性がその催しに参加することは許されていないのだ、と。フッサールは例外を実現させようとしたのだが、無益に終わった。それは規約で決まっていたのだ。これはグロテスクなことだったのではないだろうか。たとえばエディット・シュタインは、参加を許された「この世の主たる男たち(Herren der Schöpfung)」の多くよりも、フッサールの哲学についておそらくよく知っていたというのに。目的はもちろん、学者は自分の妻を連れてくるべきではないというもので、女性の学生がまだいなかった時代のものだ*1。
ヴァルターが言及するフッサールの講演は、1919年2月21日にフライブルクで行われた「自然と精神」のことだろう。この講演のための原稿の断片は、『フッサール全集』第25巻に収録されている*2。ヴァルターの回想からは、少なくともこのときのフッサールはヴァルターたちが女性だという理由で講演に出席できないことをよく思っていなかったように思われる。
そしてヴァルターによると、フッサールはその埋め合わせをしたらしい。
そこでフッサールは、せめてもの慰めとして、私たちに、その晩に扱う一連の問題について完全な講義をしてくれた。それは未公刊の『イデーンII』から取り出されたもので、「文化対象」の「構成」に関するものだった。文化対象は、物質的な事物のうえに構築される新しいさらなる「層」であり、それはちょうど、紙のページと活字の黒いインクの線のうえに一冊の本が構築されるのと同じだというのである*3。
ヴァルターが『イデーンII』の内容をいくらか知っていたことは、1923年の論考「社会的共同体の存在論について」からも確認できる*4。
ヴァルターにとって、フッサールが当時まだ公表していなかった考えに触れる機会は、上の一回だけではなかった。ヴァルターはフッサールが共同体や社会というトピックに最初に本格的に取り組んだ1919年夏学期講義『自然と精神』に出席していたし*5、そのとき毎週土曜日にフッサール宅で開かれていたディスカッションにも参加していた*6。こうした活動の痕跡を「社会的共同体の存在論について」のなかに見出す仕事は、まだ十分に行われているわけではない。
*1:Gerda Walther, Zum Anderen Ufer. Vom Marxismus und Atheismus zum Christentum, Der Leuchter Otto Reichl Verlag, 1960, p. 213.
*2:Edmund Husserl, "Natur und Geist", in Aufsätze und Vorträge (1911–1921), H.-R. Sepp & T. Nenon (eds.), Husserliana, vol. XXV, Martinus Nijhoff, 1987, 316–324.
*3:Walther, Zum Anderen Ufer, p. 213.
*4:Cf. Gerda Walther, "Zur Ontologie der sozialen Gemeinschaften", in E. Husserl (ed.), Jahrbuch für Phänomenologie und phänomenologische Forschung, vol. 6, Max Niemeyer, 1923, p. 127n.
*5:「社会的共同体の存在論について」でヴァルターはこの講義も参照している。Cf. Gerda Walther, "Zur Ontologie der sozialen Gemeinschaften", pp. 17, 28,127–128.
*6:Cf. Karl Schuhmann, Husserl-Chronik, Martinus Nijhoff, 1977, pp. 234–235.