研究日誌

哲学と哲学史を研究している人の記録

愛国者としてのフッサール

フッサールは公刊著作では自分の政治的なスタンスをはっきりと明かすようなことをほとんどしないのだけど、数少ない(ひょっとしたら唯一のといっていいかもしれない)例外として、ブレンターノの追悼文(1919年刊行)での以下の箇所が挙げられる。

信頼できる友と見た者には自分の政治的信念や宗教的信念また自分の個人的運命についても胸中を吐露した。政治の時事問題からは遠ざかっていたが、心情に関る問題はブレンターノにとって古い南ドイツの見方でいう大ドイツ主義の理念であり、この見方のなかでブレンターノは育ち、この見方にいつまでも、プロイセンへの反感と同じ程度に固執していた。この点で私はどうしても一緒になれなかった。ブレンターノにとって明かにプロイセンの流儀は重要な個人的印象としても有益な社会的印象としても決して解り易いものにならなかったが、幸いにも私自身はこうしたこうした印象を高く評価できる習わしで育っていたのである。それゆえブレンターノにはプロイセンの歴史に独特の偉大さを感受する力もことごとく欠けていた*1

フッサールは1859年に、当時オーストリア帝国領でいまはチェコ領のプロスチェヨフ(プロスニッツ)に生まれた。そのためフッサールはオーストリアの哲学者と紹介されることもある*2。こうした捉え方は間違っているというわけではないだろう。しかし、プロイセンへの好感を(第一次世界大戦の終結直後にも)隠そうとしないフッサールは、小ドイツ的に(オーストリア抜きで)統一されたドイツへの帰属意識をおそらくもっていた。

こうした事情を踏まえると、フッサールのテクストにはプロイセンあるいは(プロイセンの主導により成立した)ドイツ帝国に対する愛国心をさりげなく表明していると思わせられる箇所がほかにもあることもわかる。たとえば『論理学研究』(初版1900/01年)の第五研究第3節では、通俗的な体験(Erlebnis)概念を説明する際の例文として「私は1866年と1870年の戦争を体験した」というものが挙げられている*3。フッサールがここでわざわざ普墺戦争と普仏戦争を例として挙げているのも、きっと、「プロイセンの歴史に独特の偉大さを感受」してのことなのだろう。

私が知るかぎり、フッサールが挙げる例のなかで彼のドイツ帝国への思いが一番はっきりと読み取れるのは、次のものだ。

ドイツ民族が皇帝ヴィルヘルムのうちにかくも偉大で高貴な人格に恵まれたことは、喜ばしいことである*4

この箇所を含む草稿はおそらく1896/97年に書かれたものと推定されている。その頃の時期のドイツ帝国はすでにヴィルヘルム2世の治世だ。しかし、「恵まれた(beschieden wurde)」と過去形が使われていることからして、フッサールが「皇帝ヴィルヘルム」と名指していたのはヴィルヘルム1世ではないかという気もする。

 

私の印象では、1920年代以降のフッサールは、自分のナショナル・アイデンティティをもちろんドイツに求め続けるものの、草稿のなかでもそれ以前ほどはっきりとしたかたちでは愛国心を表出しなくなる*5。興味深いのは、フッサールが共同体論に本格的に取り組み始めるのもちょうど1920年代くらいからであり、またフッサールの共同体論は、カール・シューマンの解釈によれば、究極的には国家を不要とするという点だ(この記事の「社会倫理学」という節を参照)。このあたりについては背景的なことも含めてもっとしっかり調べたうえで考えて、可能ならばそのうち論文あるいはそれに準ずるものにできればいいと思っている。

*1:細井雄介「フッセル筆「フランツ・ブレンターノの想出」、『聖心女子大学論叢』、第133号、2019年、5–26ページ(引用は16ページから)。ここから無料で入手可能。

*2:たとえば、日本語版ウィキペディアのフッサールについての項目の記述はそのようになっている。

*3:エドムンド・フッサール『論理学研究3』、 立松弘孝・松井良和訳、みすず書房、1974年、148ページ。

*4:Edmund Husserl, Studien zur Struktur des Bewusstseins. Teilband II. Gefühl und Wert. Texte aus dem Nachlass (1896–1925), Ullrich Melle & Thomas Vongehr (eds.), Husserliana vol. XLIII/2, p. 261.

*5:書簡についてはちょっと意見を保留したい。

フッサールの倫理学・価値論へのハイデガーの不満

前回の続き。ハイデガーはフッサールが『改造』のために準備した論文について、かなり辛辣な評価をしていたのだった。1922年11月22日付のレーヴィット宛書簡をもう一度引用しよう。

お年寄り〔=フッサール〕は日本のある雑誌に載せる論文を何編か書いています。リッカートが夏にそれを取り決めました。表題は「刷新」! お年寄りが言うには、まったく「精神科学的で社会倫理学的」だそうです。ドイツでもそれを年報で公表したがっています。想像力をどんなに自由に働かせてもあなたには思いつけないようなすさまじい代物です。最悪の事態を避けるために、そういったものはドイツでは印刷できないだろう——あまりにも初歩的だから、と夫人に言いました*1

ハイデガーがこの時期すでにフッサールに対して批判的だったということは比較的よく知られている。そのため、この引用はさほど驚きを呼ばないかもしれない(ハイデガーの口の悪さに驚く人はいるのかもしれないけど)。しかし、この書簡はひとつ興味深いことを示唆している。それは、ハイデガーがフッサールの倫理学についてもいくらか知っており、そのうえでそれをよく思っていなかったということだ。

私の知る限り、ハイデガーがフッサールの倫理学(あるいは価値論)への不満を表明したテクストが少なくともあとふたつある。ひとつは1920年1月27日付リッカート宛書簡だ。

フッサールは目下のところ、もっぱら、一般的な学問論・価値論・実践論についての厳密に形式存在論的な考察に向っています。いまのところ、そしておそらくずっと、私はそこに一緒に行きません*2

ここでは「倫理学」という言葉は出てこないが、ハイデガーが「実践論(Praktik)」と呼んでいるものがこの時期のフッサールの倫理学の主要部分だといって差し支えない。

もうひとつは1923年7月14日付のヤスパース宛書簡で、ここでは、レーヴィット宛書簡と同様のハイデガーの口の悪さが見事に発揮されている。

「フッサールは、人々が自分に付いてこないのを予感し始めています——もちろんフッサールは、自分に付いてくることがあまりにも困難なのだ、と思っているのです——だってむろんのこと、「倫理的なものの数学」(これがあきれたことに最新の成果なのです)なぞ、何人も理解するはずがないじゃありませんか——たとえ、フッサールが私よりもさきに進んでいるとしても、です*3

ちなみにここで引用した箇所の前後で、ハイデガーはフッサールについてもっと毒々しいことを述べている。

三つの書簡を時系列に並べると、リッカート宛(1920年)、レーヴィット宛(1922年)、ヤスパース宛(1923年)という感じになる。リッカート宛書簡での控えめな語り口とそれ以外の書簡での辛辣さという違いは、1920年から1922年くらいまでのあいだにハイデガーのフッサールへの不満がより強くなったことを反映しているのかもしれない。あるいはハイデガーは1920年当時からフッサールに強い不満を持っていて、書き振りの違いは、単に書簡の名宛人の違いを反映しているだけかもしれない(元指導教員のリッカートよりも、自分を慕っている若い学生であったレーヴィットや友人であり理解者でもあったヤスパースのほうが、ハイデガーにとって遠慮なくものを言える相手だったことは想像に難くない)。それはともかく、フッサールの倫理学・価値論のどこがハイデガーにとって気に食わなかったのかということは、少なくともちょっとした研究テーマにはなるだろう。やりかたによっては、この切り口からフッサールとハイデガーの難しい関係に新しい光を当てることができるかもしれない。

 

今回引用したような発言を目にすると、私たちは「ハイデガーはひどいやつだ」という感想を持ってしまったりもする。しかし、少なくとも上の三つについては、そういう評価をしないほうがいいかもしれない。これらはすべて私信だし、1920年代前半当時のハイデガーはまだまだ不安定でフッサールに気を遣わないといけない立場にあったはずだからだ。先生あるいは上司に関する愚痴を漏らすことくらい、誰にだってあっていいはずだ。

*1:『ハイデガー=レーヴィット往復書簡 1919–1973』、後藤嘉也・小松恵一訳、法政大学出版局、2019年、104–105ページ。

*2:Martin Heidegger/Heinrich Rickert, Briefe 1912–1933, Vittorio Klostermann, 2002, p. 48.

*3:『ハイデッガー=ヤスパース往復書簡 1919–1973』、W.ビーメル・H.ザーナー編、渡辺二郎訳、名古屋大学出版会、1994年、48–49ページ。

マルヴィーネ・フッサールとハイデガー

前回の続き。ゲルダ・ヴァルターの回想によれば、ハイデガーはフッサールの妻マルヴィーネのお気に入りだった。実際のところ、ハイデガーとマルヴィーネとの関係は少なくとも悪くなかったようである。このことは、ハイデガーがカール・レーヴィットに宛てた1922年11月22日付の書簡から窺い知ることができる。

お年寄り〔=フッサール〕は日本のある雑誌に載せる論文を何編か書いています。リッカートが夏にそれを取り決めました。表題は「刷新」! お年寄りが言うには、まったく「精神科学的で社会倫理学的」だそうです。ドイツでもそれを年報で公表したがっています。想像力をどんなに自由に働かせてもあなたには思いつけないようなすさまじい代物です。最悪の事態を避けるために、そういったものはドイツでは印刷できないだろう——あまりにも初歩的だから、と夫人に言いました*1

「日本のある雑誌に載せる論文」とは、フッサールが改造社の総合誌『改造』に発表するために執筆した一連の論文(1923–1924年)のことだ*2。ハイデガーは論文の内容がだいぶ気に入らなかったようで、それがドイツ語で刊行されるのを阻止するために、フッサール本人ではなくマルヴィーネに助言をしたというのである。実際にこうした出来事があったかどうかはこれ以上確認できないのだが、それはともかく、上の一節は、ハイデガーにとってマルヴィーネはこうした話ができる相手だったということを、つまり両者の関係が良好だったことを示しているように思われる。

それにしてもハイデガーは上の引用でフッサールについてけっこうな悪口を書いているわけだが、このあたりについてはまた次回に。

*1:『ハイデガー=レーヴィット往復書簡 1919–1973』、後藤嘉也・小松恵一訳、法政大学出版局、2019年、104–105ページ。

*2:Edmund Husserl, "Fünf Aufsätze über Erneuerung", Aufsätze und Vorträge (1922–1937), T. Nenon & H. R. Sepp (eds.), Husserliana, vol. XXVII, Martinus Nijhoff, 1989, pp. 3–94.

フッサールの後任問題についてのヴァルターの(一部真偽不明の)回想

ヴァルターの自伝Zum anderen Ufer(『対岸へ』)は興味深いのだけど、本人以外のことについては、真偽のよくわからない話も含まれているように思われる。たとえば以下の箇所を読んでみよう。

〔フッサールの妻〕マルヴィーネさんはハイデガーのことがとりわけお気に入りで、いつも「あれは私たちの末っ子(Benjamin)よ!」といっていた。とはいえハイデガーはすでに私の〔フライブルク滞在〕時代にはすでに事柄に関してフッサールからは離れており、その後ますます強く別の方向に発展していった。フッサールの眼はこのときすでにかなり悪く、年が経つにつれ彼はほとんど目が見えなくなったため、たくさん読むことができないし、自分の学生や追従者が刊行したものについては、他人の報告に頼らざるを得なかった。おそらくそのために、フッサールはハイデガーを自分の後継者として推薦したときに、ハイデガーがすでに我が道を行っていたことに気づかなかったのだろう。だいぶ昔、私がフッサールのところに来る前に、フッサールはプフェンダーや何人かの共通の友人——そのなかには伝説的な人物であるダウベルトもいた——と一緒にチロルのゼーフェルトに滞在し、こんなに深く刺激的な哲学の議論ができる相手はプフェンダーの他にはいないと明かした。このプフェンダーこそが、フッサールの後継者になるのに適任であるべきだ。しかし、問題の会議で後任について問われたとき、フッサールは、出席者の何人かにとっては不思議なべきことに、そもそもプフェンダーの名前を挙げなかった。ある人がそれとは違うことをしたとき〔つまり、プフェンダーの名を上げたとき〕、フッサールはこの提案を聞き流した。私の推測では、これは少なくとも部分的にマルヴィーネさんの影響によるものと考えられる。プフェンダーは彼女にあまり好意的ではなく、ひょっとしたら互いにそう思っていたのではないだろうか*1

フッサールがプフェンダーを後任として推薦しなかった(そしてハイデガーがフッサールの後任となった)という話はもちろん事実だが、その舞台裏で起こっていたとされるやりとりについて、ヴァルターはどうやって情報を手に入れたのだろうか。おそらくヴァルターは誰かから聞いた話を記憶に基づいて書いているのだろう。しかし、ヴァルターが聞いたのは単なる噂かもしれない。というわけで、後任者に関するフッサールの言動の件については、同様のことを示唆する(信頼できる)ソースが他に見つからないかぎり、「ヴァルターはそう言っている」という話として受け止める程度にとどめておいた方がいいかもしれない。また、後任人事に関するフッサールの意向がマルヴィーネに影響されているのではないかいう話は、ヴァルター本人も書いているように、推測でしかない。

もちろんヴァルターは上の引用で、現在私たちが手にしている証拠からして間違いないといえることも証言している。フッサールがゼーフェルトでプフェンダーやダウベルトたちと議論をして過ごしたという箇所がそれだ*2。また、マルヴィーネ・フッサールがハイデガーのことを気に入っていたという点についても、同様のことをいくらか示唆する別の証拠が残されている。この話は次回に。

*1:Gerda Walther, Zum anderen Ufer. Vom Marxismus und Atheismus zum Christentum, Der Leuchter Otto Reichl Verlag, 1960, pp. 210–211.

*2:Cf. Karl Schuhmann, Husserl-Chronik, Martinus Nijhoff, 1977, p. 91.

尾高朝雄の絶筆

突然の死によって未完成のままになった尾高朝雄の原稿「現象学派の法哲学」の冒頭には、以下のような目次が付されていた。

  1. 哲学としての現象学
  2. 方法論としての現象学
  3. 現象学の法哲学への応用
  4. 現象学的経験主義
  5. 実定法秩序の意味構造*1

実際に書かれたのは1だけで、残りの部分がどういうふうに構想されていたのかは正確にはわからない。とはいえいくらかの根拠をともなった推測をすることはできて、第4節はおそらく1948年の論文「法哲学における形而上学と経験主義」と同じ趣旨の内容になる予定だったのではないかと思う。なお、この論文は以下のリンク先から入手でき、最近刊行された尾高朝雄『ノモス主権への法哲学』(書肆心水、2019年)にも収められている。

 

そしてなによりも注目したいのは第5節で、ここでは戦前の『実定法秩序論』(1942年)の「はしがき」の以下の部分に対応するようなことが論じられたのではないかと推測することができる。

実定法現象の複合性を論理のメスによって木津つけることなしに、これをそっくりそのまま科学の世界に移して見るためには、いわゆる方法論的な成心を去って、まず学徒自ら実定法現象の中に沈潜していくに如くはない。私は、ここの実定法解釈学についてはきわめて乏しい素養をしか持たぬけれども、本書の想を練るに当り、少くとも大局的に私の採ろうとした態度は、それであった。これを一つの「方法」であるというならば、それは、対象自体の中に身を置いて見る綜合認識の方法であり、「事物そのものに向って」(an die Sachen selbst)進む現象学の方法であるということが出来るであろう*2

『実定法秩序論』で尾高が現象学について語るのはこの箇所だけだ。つまり、尾高は自分の議論が現象学的な方法にもとづくものであると明言するものの、それがいったいどのような方法なのかを同書でははっきりさせていない。上の引用の少し前で述べられるように「本書には、いわゆる「方法論」と名づけられるような部門がない」のである*3。尾高はこのとき積み残した仕事にあらためて取り組もうとしていたのかもしれない。

ちなみに『実定法秩序論』がどのような点で現象学的な著作であるのかは、同書をそれに先立つ尾高の著作を踏まえて読み解けばかなりの程度あきらかにすることができる。以下の論文の第3節を参照。

この論文を書いたときには上の目次に十分な注意が行ってなくてそれに言及することができなかったのが惜しまれる。

 

*1:尾高朝雄、「現象学派の法哲学」、尾高ほか編、『法哲学講座 第5巻(上)』,有斐閣、1960 年、193ページ。

*2:尾高朝雄『実定法秩序論』、書肆心水、2019年、13ページ。

*3:尾高朝雄『実定法秩序論』、13ページ

純粋自我に関するヴァルターの講演

 

前回の続き。ヴァルターはフライブルクで、フッサールやシュタインだけでなくハイデガーやカール・レーヴィットとも交流を持っていた。ヴァルターは自伝のなかで、いま名前を挙げた人物が一堂に会して議論をした機会も振り返っている。

さらには、「フライブルク現象学協会」——もちろん女性がそれに参加することが許されていた——の設立が、講師と学生たちによって決定された。誰かがオープニングレクチャーをしなければならなかった。でも誰が? 誰もがそれをやらない口実をそれぞれもっていた。レーヴィットにしつこく頼まれて、最終的には私が激しく抵抗した挙句に講演をすることになった。

でも、何について話すべきだろうか。私はあれこれのひとたちと、フッサールの「純粋自我」に関する一連の問題について何度も話してきた。それはとてもぴったりしたテーマだとレーヴィットは考えた。ハイデガー——私の記憶が正しければ、教授たちの会合ではないということははっきりしていたの、彼がある種の座長のような役割を引き受けた——もまったく賛成していた。とはいえ、それはまったくもって難しい問題だった。

要点は、フッサールによれば、認識する者としての経験的な意味での人もまた現象学的な括弧入れに服するというところにあった。そのため存在するのは、すべてがそこで「構成」される意識の流れと、それにともなった純粋自我であり、そうした自我は絶対的に空虚かつ無内容で、単なる観てとる目なのである。プフェンダーのいう根本本質や「自己」の部分、さまざまな対象領域の認識がそもそもそれによって可能になるような「心の器官」のことを考えて、私が——たしかプフェンダーの名前は出さずに——立てた問いは、もし「純粋自我」が「純粋に空虚で無内容」であるならば、そもそもどうやってそれが何かを「志向」し認識することができるのかというものだった。議論に参加したのは、ほとんどフッサール自身とハイデガーだけ、それからたぶんエディット・シュタインだった。とりわけハイデガーは、こうした問いの立て方をとても重要で価値あるものだ評価した。他の人たちはあとから苦情をいってきた。講義が難しすぎて学生たちはほとんどついてこれなかったそうだ。まあ私も自分を急き立てて講義をしたわけではなかったのだけど! 講演の原稿はあとで人に貸しているうちになくなってしまった*1

ヴァルターのフッサール批判はいまから見れば定番の論点だといえるが、ヴァルターがそれを1919年の段階ではっきり打ち出していたということは強調されるべきだろう。

ヴァルターが依拠していたプフェンダーの考えがフッサールの自我論に与えた影響については、マールバッハの『フッサール現象学における自我の問題』第7章が詳しく論じている*2

*1:Gerda Walther, Zum anderen Ufer. Vom Marxismus und Atheismus zum Christentum, Remagen: Otto Reichl Verlag, pp. 213–214.

*2:Eduard Marbach, Das Problem des Ich in der Phänomenologie Husserls, Martinus Nijhoff, 1974.

ヴァルターとフッサール『イデーンII』

ヴァルターの自伝には、彼女が大学に入学された数少ない女性だったことに起因するトラブルに関する記述もある。以下はそのうちのひとつ。

ある日フッサールは、私たち全員を講演に招待してくれた。その講演は、フッサールが自分の前任者だったリッカート教授によってたぶん創設されたフライブルク文化哲学協会で行うものだった。すぐあとに、フッサールはいくらかばつが悪そうに、女子学生たちに、自分もあとからはじめて知ったのだといってこう告げた。女性がその催しに参加することは許されていないのだ、と。フッサールは例外を実現させようとしたのだが、無益に終わった。それは規約で決まっていたのだ。これはグロテスクなことだったのではないだろうか。たとえばエディット・シュタインは、参加を許された「この世の主たる男たち(Herren der Schöpfung)」の多くよりも、フッサールの哲学についておそらくよく知っていたというのに。目的はもちろん、学者は自分の妻を連れてくるべきではないというもので、女性の学生がまだいなかった時代のものだ*1

ヴァルターが言及するフッサールの講演は、1919年2月21日にフライブルクで行われた「自然と精神」のことだろう。この講演のための原稿の断片は、『フッサール全集』第25巻に収録されている*2。ヴァルターの回想からは、少なくともこのときのフッサールはヴァルターたちが女性だという理由で講演に出席できないことをよく思っていなかったように思われる。

そしてヴァルターによると、フッサールはその埋め合わせをしたらしい。

そこでフッサールは、せめてもの慰めとして、私たちに、その晩に扱う一連の問題について完全な講義をしてくれた。それは未公刊の『イデーンII』から取り出されたもので、「文化対象」の「構成」に関するものだった。文化対象は、物質的な事物のうえに構築される新しいさらなる「層」であり、それはちょうど、紙のページと活字の黒いインクの線のうえに一冊の本が構築されるのと同じだというのである*3

ヴァルターが『イデーンII』の内容をいくらか知っていたことは、1923年の論考「社会的共同体の存在論について」からも確認できる*4

ヴァルターにとって、フッサールが当時まだ公表していなかった考えに触れる機会は、上の一回だけではなかった。ヴァルターはフッサールが共同体や社会というトピックに最初に本格的に取り組んだ1919年夏学期講義『自然と精神』に出席していたし*5、そのとき毎週土曜日にフッサール宅で開かれていたディスカッションにも参加していた*6。こうした活動の痕跡を「社会的共同体の存在論について」のなかに見出す仕事は、まだ十分に行われているわけではない。

*1:Gerda Walther, Zum Anderen Ufer. Vom Marxismus und Atheismus zum Christentum, Der Leuchter Otto Reichl Verlag, 1960, p. 213.

*2:Edmund Husserl, "Natur und Geist", in Aufsätze und Vorträge (1911–1921), H.-R. Sepp & T. Nenon (eds.), Husserliana, vol. XXV, Martinus Nijhoff, 1987, 316–324.

*3:Walther, Zum Anderen Ufer, p. 213.

*4:Cf. Gerda Walther, "Zur Ontologie der sozialen Gemeinschaften", in E. Husserl (ed.), Jahrbuch für Phänomenologie und phänomenologische Forschung, vol. 6, Max Niemeyer, 1923, p. 127n.

*5:「社会的共同体の存在論について」でヴァルターはこの講義も参照している。Cf. Gerda Walther, "Zur Ontologie der sozialen Gemeinschaften", pp. 17, 28,127–128.

*6:Cf. Karl Schuhmann, Husserl-Chronik, Martinus Nijhoff, 1977, pp. 234–235.